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5月第1便:「強くなること」について

Toマシュウ

 はじめまして。片桐涼花といいます。マシュウさんからお誘いいただいて、往復書簡に参加させていただくことになりました。色々なことをゆるゆると書けたらと思っています。

 読んでいるかたに少しだけ自己紹介をすると、私の属性は大学院博士課程に在籍している院生であり、若者支援の現場で働く非常勤職員です。大学院博士課程というのは、大学の学部(4年)→大学院修士課程(2年)→大学院博士課程(3年〜)という大学のシステムの1つです。ボーっとしていたら流れつきました。どうしようもないたどりつきかたですね。
若者支援はわかりやすい言い方だと、いわゆる「引きこもり・不登校・ニート」という属性を持った若者が就労自立できるように支援するもの(行政的には)です。彼ら彼女らの相談に乗りつつ、集まってイベントやプログラムをしたりして、社会参加や就労を促していくようなイメージです。

 さて、往復書簡ですがどんなことをテーマにするか悩みます。なにがいいでしょうか、と思ってG Wを過ごしていたら、高校時代の友人と話して考えたことがあったのでそれをテーマにしたいと思います。久しぶりに会ったハイスペ友人が言った「今のポジションでは大きなことが出来ない、関われないから、もっと力をつけて意思決定をする側になっていきたい。」というセリフについてです。
 その時は仕事について話していたので、確かにそういう実際のことはあるだろうし、むしろそこを頑張ろうというのはハイスペたる所以でもあるでしょう。ただ私はちょっとだけ引っかかってしまったんです。おそらく友人は個別具体的な業務に関して“デカい”仕事がしたいという意味だけではなく、仕事以外の社会との関わり全般でも強くなり“上”に立つことで初めてなにかを変えられると考えていそうでした。これはきっとそこまで特殊な感覚でもないのではと思います。つまり「強くなること(=上にいく)で決める権利と変える実行力を手にいれることができる」という考え方は、職場だけではなくて普段の日常を生きている人としても、みんなが共有している正解になっているのではということです。

 「強くなる」という表現は抽象的で詩的ですが、例えば資格や能力の証明、権威のある所属や人間関係など、その人がそれに資することの証明あって、他よりも優れていると判断される、というようなことでしょうか。仕事の効率や合理性を高めることを目指すならば“強い”人の選抜は一定の効用があるのかもしれませんし、「ゴリゴリいきたい」という夢や野望自体を批判するつもりも、される必要もないと思います。

 ただ、仕事や経済以外の社会に視野を広げた時に、「強いやつ」の関わりかた、変えかたしか選択肢がないのでは、生きかたや考えかたが限定されすぎてしまう気がするのです。弱さやままならなさを抱えながら、それを隠したり変えることなく人と関わり、社会が変わること(変わる方向に進めること)は望めないのでしょうか。“弱い”私やあなたが感じていることは、“強くなる”ことで解決することなのでしょうか。弱いままどうあれるのかをみんなで考えたり持ち合ったりできないのでしょうか。などなど、いろいろどうなんでしょう。

 ちなみに私自身は全然強くないです。大学院生という肩書きは一見強そうですが、ろくな研究業績もあげられずうだつのあがらない日々を送っています。それに若者支援の現場で出会う若者たちも、ひとまずは「(人並みに)強くなって自立する」方向で様々訓練や支援を受けているわけですが、それを目指していくことが本当の正解なのかわからないんですよね。少なくとも私は、研究業界で「強くなること(例)デカい雑誌にバンバン論文が載る」が、研究者として一定正しいことは分かりつつ、でもそれが目的ではないよなぁと思ってしまうのです。もっと違うルート?なり在り方もあったらいいんですが、そこを開拓する別種の強さもなかったりして、ぶつぶつくさくさ悩んでいます。

 ブッツリとした終わりかたですが、悩みのままバトンを渡したいと思います。そして読んだ方も色々言いたいことがあるかもしれません。釈明(?)しておくと、私としてはどの部分に対しても善い/悪いや正誤の断定を目的としてはいないですし、違う考えの人を説得して考えを変えてほしいというものでもないです。どういう形であっても、こういう人(たち)がいるということで、なにか考えるきっかけや手がかりに万が一なったらよいなという気持ちです。それではまた。お返事楽しみにお待ちしています。

                           From 片桐涼花


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