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牛と暮らした日々-そこにあった句#48 大脱走(おまけ)

数年前の8月。ある暖かい夜だった。

牛舎仕事はいつものように滞りなく進み、まもなく終わろうとしていた。
夫は夜の放牧に牛を出し、後の糞の掃除をしていた。
私は牛乳処理室で、今晩のおかずは何にしようかなどと考えを巡らせながら、バケツを洗っていた。
いつもより少し遅い夜8時頃だった。

(今晩は牛がよく鳴いてるな…)と、のんきに窓の外を見た。
その時……

牛が。

牛がそこにいた。

えっ?ここは放牧地でもなく、牛道でもないのに?
しかも1頭2頭ではなく、わらわらといる。

血の気が引いた。

牛舎に駆け込んで叫んだ。
「牛が漏れてるよーー!!!」
慌てて、スコップを放り出す夫。

今日出す予定の牧区は、右のはず。それが?
「ああ!ゲートを右に変えるのを忘れてた!」と叫ぶ夫。

牛は昨日の牛道を歩き、開いているゲートから漏れ、処理室の前にたむろし、そして下の国道に向かって歩き出していた。

やばい。やばすぎる。
国道に向かっている。

すごく沢山漏れているように見えるが、一体何頭だろう?
「放牧地にまっすぐ入った牛は何頭?」
「たぶん4~5頭」
「じゃあ、40頭以上が国道に向かってるんだ…」

絶句。

エプロンを投げスコップを投げ、すべての仕事を放り出して2人とも牛の後を追った。
走って追い抜かして牛の前に回り込んで逆から追いたい!という気持ちをぐっとこらえて、ゆっくりと後を追う。
人間が走ると牛も走るのだ。牛の足の方が人間よりよほど速い。
興奮させてしまっては、収拾がつかなくなる。

ゆっくり後を追う。
動きはゆっくりだが、顔面蒼白、心臓バクバク、喉はカラカラ、頭はグルグル。

農協の畜産係に電話して助けを呼ぼうか?
警察に電話しようか?
消防か?
もし車と衝突したら賠償責任が…。

ぐるぐる、ぐるぐる考えながら
「何でゲートを変えるのを忘れたの?!」と心の中では夫を罵っていたが、事態を収拾させるのが先決で、実際は声も出なかった。

牛たちと私たち2人は、自宅と牛舎のある丘を下り、丁字路に出た。ここは、国道へ行く道と森へ行く道の分かれ道である。

何と!牛群は森の方へ曲がった。

良かったーー。とりあえず良かった。
これなら、2人で何とかなるかも知れない。

「私は国道の方に牛が行かないように、ここで見張ってるから」
「俺は懐中電灯を取りに戻って、車で道路の反対から回り込んで追うわ。この道は高校の方の道とつながってるから、そっちから回り込む。」
夫は丘の上の自宅に向かって歩き出した。

私はひとり。
真っ暗な夏の夜。
道路にひとり。

かれこれ9時は過ぎているだろう。
だけど、お腹は全然減らない。
ただただ緊張していた。

夫が車で下りて来て、反対側の高校の方へ走っていった。

私は、森の方の道から、車のライトが戻って来るのを、そのライトの前に牛群の影が浮かび上がって戻って来るのを祈った。

長い時間の後、車のライトが見えた。
牛は?牛は?牛の影は?

影は無い!

あーー。失敗か。

夫「牛が1頭もいない……。どこに行ったんだろう…。もう一回見てくる」
今来た道をまた戻って行く。

牛が1頭もいない?
でも、真っ暗な森の方から
ブモーブモーと牛の雄たけびは聞こえるのだ。

しばらくして戻ってきた夫。
「いた!全員『離れ地』にいた!」

『離れ地』とは、うちの所有地で、道路から入った所にある採草専用地である。
そこは、一番牧草を採って、二番牧草が美味しそうに生え始めている場所だ。道路から見える訳じゃないのに、何で牛には美味しい草が生えていると分かったんだろう?

「何でそこにいると分かったの?」
「糞が点々と落ちていて、それをたどって行ったら、いた。」

そう。ヘンゼルとグレーテルのパンくずのように、牛の行方を指し示す糞が道路に点々と落ちていたのだ。

とりあえず良かった。本当に良かった。

「枝道を封鎖するためのロープ、採草地を囲う電気牧柵、下の放牧地から入れるから、ブラシカッターも持ってくる。」
下の放牧地は上の放牧地とつながっているが、普段牛が行かないので、熊笹がぼうぼうに生えていて、電気牧柵だかゲートだか何だか分からないようになっている。

夫は色々取りにまた戻った。

それから、枝道をロープで封鎖し、ブラシカッターで笹を刈り、牛が逃げないように見張り。

ああ。もう。何時?
何時でもいいか。

やっとの事で、牛群を採草地から出して、道路を牛舎に向かって追い始めた。
普段は車で移動している道が、歩きだと遠い遠い。

そして下の放牧地に入れたのはいいが、川を渡った事がない若牛たちが、牛舎の方に登っていけない。
また戻る牛もいる。
もう、バタバタに次ぐバタバタ。

いつもなら夜も放牧しているのだが、この騒ぎで全頭戻ったか確認できないので、今日のところは牛舎に入れる事にして、牛たちを牛舎に戻す。そして数の確認。

1頭、2頭、……、ええっと……45頭……。
1頭、足りない!

またしても、真っ暗闇の大捜索。
いない。
もう、へとへと。

「今日はもう止めるべ」

2人で牛舎に戻り、さっき(っていつ?)の続きの牛舎仕事(掃除と洗浄)をし、牛に餌の乾草を与え、仕事を終えた。

時計を見たら、夜中の12時半だった。
それから晩ご飯やらお風呂やら。
布団に入ったが、興奮しているのと残りの1頭が心配で、なかなか寝付けなかった。

翌朝。
起きて、リビングのカーテンを開けた。

すると、
そこに1頭、牛がいた!!

「牛は群れで行動するから、1頭じゃどこにもいかないって、言ったべ?」

本当ですね。そうですね。
あなた様の言う通りでございました。

「誰かさんがゲートを変えるのを忘れたからねーー」と今朝も心の中で夫を罵っている私であったが、それは言わないでおいてあげた。

夏の夜の四十頭の大脱走 Junko

後日札幌で開催された俳句のイベントで、脱走の句を作って発表した。
そして二次会で皆さんの前で、ゲートを閉め忘れた事を暴露した。
そして、今こうしてあの時の心の声を書いている。
(おわり)

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