牛と暮らした日々-そこにあった句#18 発情
発情の声たからかに牛の朱夏 鈴木牛後
(はつじょうのこえたからかにうしのしゅか)
牛は色々な場面で鳴くのだが、一般の方が思うほど、いつもいつも鳴いている訳ではない。
一番激しいのは、やはり発情の時。次に水が出ない時。そして、いつもと違う何かが起こった時(繋ぎ飼いの冬の時期にチェーンが外れて牛が通路をうろちょろしてるとか)くらいだ。
美味しくない牧草が配られた時は、鳴くというより、ブーイングが起こる。低くくぐもった声で「ぶーんぶーん」と言っている。まさにブーイング。
昔、夫が実習に行っていたK牧場で、牛が激しく鳴いていたので、こりゃ発情だろうと、人工授精のために獣医さんを呼んだそうだ。そして診てもらったら、発情ではないと言われた。よく調べたら、ウォーターカップ(水が出るところ)が故障して水が飲めなかっただけだったとか。
教訓。牛が激しく鳴いてても、1頭だけだと発情を疑ってもよいが、並んだ2頭が鳴いていると、まずウォーターカップの故障を疑え。(ウォーターカップは2頭に1個配置されている)
さて、放牧していると牛の発情がよく分かる。というのは、発情の牛がすべて鳴くという訳ではなく、分かりやすく鳴いてくれる牛もいるが、静かに発情がきている牛もいるからだ。
そのような牛でも、放牧していると、お互いにメス同士で背中に乗り合うので発情が分かるのだ。
なぜこんな行動をするかというと、オス牛に「ここに発情のメスがいるよー」と教えるためだといわれている。メスだけの群れなのに、虚しい…。
牛啼いて誰も応へぬ大夏野 牛後
(うしないてだれもこたえぬおおなつの)
オスの牛をメスの群れに交ぜて放牧する、もしくは、メス牛を繋がれているオス牛のところに連れて行って、本交(本当に交尾)させるのは、今ではごく少数派になってしまって、ほとんどが人工授精になってしまった。
この人工授精、ほとんどの酪農家さんは獣医や人工授精師に頼むのだが、うちでは夫が自分で授精している。自分の牛だったら、授精師免許がなくても授精してよいのだ。
自分で授精をしようと思ったきっかけは、放牧期間中だと、獣医さんを待つのに発情の牛だけ牛舎に留守番させることになるのだが、1頭だけ置いておくと「置いていかないでーー」と鳴いて鳴いて。その声を聞いているこっちが切なくなるのだ。
そして夫は、人工授精の教本とビデオを取り寄せ、独学で技術を修得した。
修得したといっても最初から上手くいったわけではなく、始めた頃は時間ばかりかかるし失敗するし、しっぽを持って隣で手伝っている私は嫌だった。だって上手くいかないと、夫がだんだんイライラしてくるんだもん。
「同じ人間なんだからできないことはないべ」と、謎の自信をみなぎらせていたが、「実際に上手くいってないしょや」と牛の背中ごしに言い争ったりして。
紫陽花や妻のときどき遠くゐて 牛後
(あじさいやつまのときどきとおくいて)
そして受胎率も下がり繁殖成績も下がりとさんざんだったが、我慢してずっと継続していると、今では繁殖成績はかえって全道平均を上回っている。これは腕が上がったのもあるが、獣医さんは日中しか来てくれないのに、自分だといつでも発情のタイミングを逃さず授精できるからかもしれない。
現在では、自分ひとりで授精できるように、しっぽを紐で固定するという工夫をして、私のしっぽ持ちの仕事もなくなった。
牛舎のホワイトボードに『ローラAI』(AI=人工授精)と書いてあるのを見ても、気持ちが重くなることはもうない。やれやれ。
扇風機の振れる両極にて笑ふ 牛後
(せんぷうきのふれるりょうきょくにてわらう)
獣声のけおんと一つ夏果つる 牛後
(じゅうせいのけおんとひとつなつはつる)