文章の時代が来ている(自分の中で)
音声と動画の時代
僕はもう長いこと、ネットで文章を読む行為をしてこなかった。たまにニュース記事を読むことはあるけど、その程度だ。自分自身はブログやX(旧Twitter)で文章を書いているくせに、他の人のブログ記事やポストはほとんど全くと言っていいほど読まない時期がもう10年以上は続いてきた。
記憶にある限り2008年頃には、はてなブログで好きなブログが10以上はあったし、2ちゃんねるもけっこう読んでいた。でも好きなブログはいずれも更新されなくなり、加齢と共に2ちゃんねるの独特な空気にも馴染めなくなり、いつの間にか5ちゃんねるにもなっていて、今では全く見ていない。
文章を読むこと自体は好きだけど、本で十分だ。世の中には大量の本があり、読みたい本も大量にある。しかも図書館を使えば無料で読める。ならもう読み物は本だけで十分だ。時間は有限だし集中力も有限なのだから、ネットでまで読んでいる暇はない。
ところで、ネットで文章を読まなくなったここ10年以上の間、僕はネットで何を摂取していたのかというと、動画と音声だ。ニコニコ動画、YouTube、Voicy、ポッドキャストなど。読むよりも聴く、あるいは観るほうが楽でいい。何かをしながら聴けたり観れるのもいい。現代人は忙しいのだ。僕はたいてい、家事をしているときに何か聴いている。音声コンテンツはもちろん、動画だけど画面は観ずに音声だけで聴いたりなど。
文章から音声・動画への移行は、僕個人だけの話ではなく、ネットでコンテンツを摂取する方法の潮流だろう。明確なエビデンスみたいなものを確認したわけではないけど、どう考えてもそうでしょう。携帯電話はスマホになって、ネット回線は4Gになった。僕なんか外を歩いて移動しているときはスマホで音声、カフェにいるときはスマホで動画ばかり。スマホで文章を読むことは自分のブログの推敲以外ではほとんどない。
受信側ではなく発信側としても、音声と動画の時代であると感じてきた。はてなブログで文章、YouTubeでラジオを発信した場合、同内容であってもYouTubeのPVが5倍ぐらいある。まあそれは「文章か動画(音声)か」以外にも「はてなかYouTubeか」の比較も入ってしまい、プラットフォーム力の差も大きそうではある。とはいえ、なぜプラットフォーム力の差があるかといえば、それは文章よりも動画(音声)が強い時代だから、という面はあるだろう。それ以外の要因もあるにしても。
文章の時代に回帰してきた
そんな感じで、「文章から音声・動画の時代」を受信側としても発信側としても体感しながらここ10年ぐらい生きてきた僕だけど、タイトルに書いた通り、最近、文章の時代に戻ってきている。受信側としても発信側としても。
それが時代の潮流かどうかはわからない。僕個人としてはそうなってきているという話。なぜかというと、結局のところ、文章がいいんだよな。完。
要約するとこの一言。具体的に文章の何がいいのかを以降に書いていく。
受信側としての文章回帰
何かをしながら聴いたり観ている場合、インプットできているようで結局ほとんどできていない。その事実を認めた。すぐに忘れてしまったり、あるいは忘れはしないけど文字通りただインプットしただけで終わる。自分の中にその情報は存在しているけど、「で? だから何? それについて自分はどう思うのか?」が何もない状態。
まあそれでもいいっちゃいいけど、文章でインプットした場合はもっと考えられる。「ながら読み」という行為はできないので、必然的に読むことに集中せざるをえない。あと、自分のペースで読み進められる。自由自在に一時停止も巻き戻しもできる。するとごく自然と読みながら考えることになる。「著者はこう言ってるけど、俺はそうは思わないなあ」とか「なるほどなあ。となると自分の過去のあの経験についてはこういう解釈もできるのかもなあ」とか、こういう思考は単なる一例だけど、何かしら考えることになる。意識しなくても自然とそうなる。
じゃあ動画や音声もそれだけに集中しながら、一時停止や巻き戻しも駆使して摂取すればいいのでは、という話になるけど、それなら文章でいいんだよな。いちいち操作して停止したり巻き戻すのが面倒だし、じっと集中しながら観たり聴くのもしんどい。じれったくなってくる。
というのが受信側としての文章回帰。この根底には、毎日を丁寧に暮らしたい欲の強まりがある。僕はもう40手前。きっと人生を折り返している。それどころか最終コーナーを曲がった可能性だって普通にある。まあそもそも人間なんていつ死んでもおかしくないのでレースにたとえるのも違うんだけど、それは今回は置いておく。とにかく、何かをしながら片手間に動画や音声を摂取しては脳内に半端な知識を撒き散らしてばかりいてもしょうがない。大げさに聞こえるだろうけど事実として、人生の無駄遣い感を覚える。1つ1つに集中したい。何か情報に触れて知識を付けようとしたり楽しもうとする際は、目の前の情報に集中したい。そしてそれをするなら文章がいい。
発信側としての文章回帰
発信側としての文章回帰は、今年1月にKindle本を出版したことがキッカケだ。
ちゃんと世に出した本はこれが初めてになる。約10万文字の文章を書き、推敲して、本の体裁を整える。その作業はとても苦しかったし時間も掛かったけど、その分だけ完成したときの達成感は格別だった。そして書いてる最中も、確かに苦しかったけど一方で充足もしていた。謎に「今、俺はやるべきことをやっている」感があった。
そして本を無事に出版し、2冊目を今は書いている。書かない選択肢はない。今の自分の生活の中で最も重要なプロジェクトに位置付けている。
しかしそうなると、言うまでもなく他のことに使える時間や気力や体力は少なくなる。僕はこれまで本の他にもブログ、X、ラジオ、動画(情報提供やvlog)などをやってきている。それらはどうしよう。全部やれるならやりたい。でもそれは無理だということはやってきた体験からわかっている。1日が52時間ないと全部は無理だ。生活の全てを創作活動に捧げるのなら1日37時間ぐらいあれば可能だけど、自然の中を散歩したり料理して気分転換したり畑で野菜を作ったり本やネットで読む時間も充足した暮らしには不可欠であり、それらを算入したら52時間となる。つまり全部は無理であり、選択と集中が求められる。
選択と集中を考えていくと、その対象は何をどう考えても文章になる。最もこだわりを持って作っているし、没頭できるし、自分の作ったものへの納得感もある。
本やブログ(プラットフォームは問わず、数千文字ぐらいの長さで手軽に書いてネットで公開することを指している。noteも含む)は、たとえお金にならなくても細々と一生涯続けていくとも思える。物事を考えるためには書く必要があるので、書くことは生活の一部だ。つまり発信しようとしまいと書くことになる。でもせっかく書くなら最低限でも他者向けに整えて発信しておこう、そしたら世の中の3人ぐらいは楽しんでくれるかも、という考えになる。
一方でそれ以外の発信は、文章への選択と集中の話がまだ無かった時点から、もう継続がしんどい状況にはなっていた。
どうにかお小遣い程度の収入を得られる段階にまでは成長させられて、それだけでも我ながらたいしたもんだと自画自賛しているけど、それ以上に成長する展望が見えない。自分の作るモノを客観的に見たとき、ここが限界だろうと思えてしまう。そして「それならもうやめちゃおうかなぁ」という考えが元から発生していた。
それらはお金のためだけにやってきたわけではない。お金のためだけにやる労働とは自分の中で位置付けが異なる。これまでに作った動画もラジオも、どれも僕にしか作れない大切なモノだ。とはいえ、それはそれとして、リソースが有限な中、お金を一切稼げなくても動画を作り続けたいか。喋り続けたいか、というと……。その回答が、書くこととは異なる。
文章の場合、ここが限界だからやめちゃおうかなぁとはならない。ここが限界だと思わないし、ここが限界だとしても自分が作るモノに自分で納得できているのでそれで十分だし、そもそも創作である以前に生活の一部だから、仮に発信はやめたとしてもどうせ書く。となると発信もする。結局は。
という感じで、発信側としても文章に回帰してきた。より正確に言うと、色々とやってきた状態から、ブログぐらいしか発信手段が無かった時代のように文章に集中する状態へ戻ってきている。
note、面白い
受信側としても発信側としても文章に回帰してきており、その一環としてnoteで書いたり読んだりもし始めている。
note、面白い。別にこの場所を持ち上げたいわけではなく、本当にそう思っている。
ネットで書いたり読む文化は、文章以前の文字を用いたX(旧Twitter)内での短文とそれに対する脊髄反射、他者への攻撃、揚げ足取りぐらいを残して人の大勢集まる場としては絶滅したんだと思っていたけど、それは僕の勘違いだった。noteが盛り上がっていた。
個人の方が書いてる無料で読める記事に面白いものがたくさんある。書くことが好きでネットに書いてる人たちが今もこんなにいるのかって驚いている。かつてのはてなブログとはだいぶ雰囲気が異なるけど、盛り上がりの度合いだけで言うなら同等あるいはそれ以上な気もする。
僕はかつてのはてな的空気感を醸し出してしまう人種であると自覚しているけど、まあ気にせずここで色々書いていこうと思う。おわり。