【日記】メリークルシミマス☆彡
メリークルシミマス☆彡
離婚したり、メンタルをぶっ壊したりで本当に一人っきりのクリスマスというのも珍しいのでこの特級呪物みたいな感情について考えた。
子供の頃から自分が企画して実行しないと楽しい日はやってこない、という心情で生きてきたのでクリスマスは特別な日というよりは、クリスマスという題目で人を集めて楽しい日にするを実行しないと欲しい物が一個手に入る日以外のなにものでもない日という感覚で生きてきた。なので恋人が居ないなら居ない人同士で自虐交じりにはしゃぐ日だし、恋人が居たら大事な人と大事な平穏を感謝しあう特別な日になるだけである。
今年は相当メンタルがやられていた。私自身、人と居ると相手がどんな人であろうと気をつかってしまい疲弊するタイプなので今年は友人と遊ぶことも止めて休養に専念する事にした。一人であっても自分の為に特別で企画的な日にするは可能なのかもしれないが、どうにもこうにも自分の為に頑張るがどうしてもできないタイプなので今年はただただゆったり虚無ってた。
クリスマスと言えばケーキなのだけど、クリスマスだからといって自分一人の為に500円以上もする物を買うか凄く悩んだ。クリスマスなんだからと言っても今年の私にとって平日と何か違う所があるだろうか?月に一度のかつやのかつ丼が一番の楽しみみたいな人間になかなかにハードルが高い。そもそもカットケーキ一個とか逆に寂しくなる。美味しいけど特別感が無くなる。そうなると二個買う訳だけどそるなるとスーパーのミニホールケーキと同じ金額になる。ホールケーキそれは夢とロマンである。特別な日の象徴と言ってもいい。ただミニホールケーキは全然1回で食べきれる微妙な大きさなのに1回で食べたら金額的に罪悪感で潰れるお値段なのである。悩ましい。
そもそもこの貧乏性でいままでよく生きてきたなと思うのだけど、程々にメンタルが安定してたらホールケーキも1000円位で作れるので不安は解消され満足も保持されるのである。そもそもこんなくだらない事でずっと悩み続けたりしないしだろうし、やはり人類はメンタルを病んではいけない。
ただ人類は転んでもタダでは起きないものなので、今年はちゃんとビエネッタ(400円)を買っておいた。あれは種類別がちゃんとアイスクリームであり、ハーゲンダッツの仲間みたいな枠なのに何故かカットしないと食べれないので私の中ではアイスホールケーキの枠なのである。1回の丁度良い量は1/3カットなのだけど、特別な日なのでそれを1/2カットにする。正直大人になると胃にくる量なのだけど特別感は無限大である。こうやって今年の平穏は保たれたのである、ありがとうビエネッタ。
あとクリスマスと言えばケンタッキーなのだけど、バーレルパックはやっぱり夢とロマンである、あれを抱えて幸せを胸に抱きたい。公共交通機関ですれ違ったらこの人ケンタッキー買ったなとすぐばれるケンタくさい民に私はなりたい。でも値段が本当に可愛くない。ケンタッキーはクリスマス以外にクーポンで買った方がいいじゃないか、落ち着けと心の中の天使に凄い勢いで止められる。ケンタッキー以外の鳥は結局私の中ではどこか心の中で妥協を感じるので絶対鳥を食べなきゃとは思わないのである。当然貧乏性だけど我慢はいけないと何度かケンタッキー再現レシピを試したこともあるが、完全なるケンタッキーの再現は私には無理だった。秘伝のスパイスと加圧チキン?的なあの触感は本当に謎である。
気づいたらクリスマスの話じゃなくてどれだけ食い意地がはってるかの話になっている。もうダメだよこの人生。
人生でお金に余裕があるという状況を経験しないでいると500円の買い物で一世一代の大決断みたいな悩み方で時間を無駄にする人間に育つので低賃金労働とかたぶん未来を明るくしないよとも思うのであった。
話は戻ってクリスマスはクルシミマスになってしまうのかである。
別にキリスト教信者ではないのでクリスマスが特別な日という訳ではない。どちらかというと家族や恋人と過ごす日というイメージが強い。クリスマスまでに恋人を作らないといけないは本末転倒で、クリスマスとい何か理由のある日になら大事な人に感謝を伝えられる、日ごろから感謝する事は当たり前だとしてもそれが素敵な事だよねと再認識できる日である、たぶんこっちが大事な気がする。それが家族でも恋人でも友人でも良いと思う。特別な日ではあるのだけど、むしろ平穏な日々の過ごし方や関係が効いてくるというか。当然人によるのだけど。
完全虚無のクリスマスを過ごしながら、他人の幸せを妬むのも呪うのもよくないよなと思いつつ、でもクリスマスクリスマスしてる人にはその大事にしたいとか感謝を伝えたいとか、一緒に居てくれてありがとうを伝えたい人が居るという事であり、やはりそこには羨ましいとかそういった気持ちが無い訳ではなく、ほんの少しクルシミマスにもなるわなぁ……とも思うのであった。とはいえ居ないものは居ないのでしょうがない。
感謝をしてる人ならいっぱい居ても、心が引きこもり気質(社会性フィルター)な人間なので素のままで居るのが凄く難しい。大事と思うからこそ気をつかう。ペースも雰囲気も大事で、相手に合わせるっていうのも大事。簡潔に用件をまず述べるとか、傾聴にまわって相手に場に居る感を持ってもらうとか、雑談なのか議論なのかで言葉の使い方を変えるとかなんかいっぱいあるのはわかるのだけど、ずっとそればかりをしつづけると少し疲れてしまう。普通の会話の中でこの数千文字の暴力みたいなのぶつけちゃいけないなというのもわかる。だけど私はたぶんこの怪文書の世界のままの素の自分で語り合える事が好きなんだと思う。このペースが合う人に会えても相性はそれだけでは決まらない。とはいえまずこの歪んだ怪文書が好きだっていう稀有な人と出会わない事には素の私の望む幸せはやってこないんだろうなと始めたのがこのnoteである。でもネットに何か書く事で良い思い出がないので書こうとすると過呼吸起こしたり涙が止まらなくなったりもする。でもやらないと奇跡は起こらないからなぁと頑張るのだった。どれだけ続くかはわからないけどがんばっていきたいね。
話が大幅に逸れたけど、今年のクリスマスは私なりに思う所あって自分で選んだクルシミマスなのでまぁしょうがないよなと。今年の自分は素の自分を大事にしてあげたいという年だって事で。少しでも自分を納得させる事があると少しは楽になるものだ。
とりあえず今年のクリスマスなのかクルシミマスなのかわからないけど、貴方にとって人であれ物であれ大事な思いと過ごせる日でありますように。
メリークルシミマス☆彡