ひとり芝居の戯曲「私は、恋をした。」STOREで読めますよ。
星歌ひとり芝居の上演台本「私は、恋をした」を販売開始しました。Shiroinuma’s storeというウエブ上のサイトをご覧ください。
上演終了したばかりのほやほやの戯曲「私は、恋をした。」上演をご覧になれなかった方にも触れる機会が少しでもできますように、とリストに載せました。どうかご利用くださいね。
実は上演を前に、いろいろと長さを変更したプロセスがありました。はじめにできたのが50分バージョン、30分バージョン、というものも、そのSTOREのメールに連絡いただければ、販売します。どんなプロセスで上演台本まで変遷したのか、観察するのも楽しいかもですね。
https://shiroinuma085.stores.jp/
出演者はもう疲労困憊です。そりゃわかります。一人芝居というのは、普通の人数のいる芝居と違って、ほかには誰も時間を埋めてくれないのです。自分がじっとしてしまったらじっとしてる空間がそこに現れてくるだけです。いや実は、二人芝居や三人芝居では、一人がじっとしてしまう、ってことは豊かな表現になるのです。つまり、相手役を見つめる仕事。するとお客さんは見つめている先には何があるのか、と関心の向きが誘導されます。そこにいるのが相手役。相手役がなにかしていることに注目を集めるための手法が「じっとする」ってことなんです。相手役をひきたてる重要な仕事ですね。
じゃ一人芝居でもなにかをじっと見ちゃえばいいじゃないか。そしたらその見た対象のなにかに客が注目して、それはそれで切り替えの時間になるじゃないの。…いやいや。それはそうとはならない。客というのは、人が好きなものなんですね。もちろん絵が好きな人、立体造形が好きな人、とかいろいろいますから、役者が見た先に絵があれば、絵を見るいい時間というのができる可能性はないわけではない。だけど、そこに人がいたら、人のほうに圧倒的に関心がひきよせられるのが人のようです。どうにも、舞台の上に人がいれば、ほかにいろんなものがあっても、お客さんは人を見てしまう。見たがる。その人がなにもしていないと、なにもしてない退屈な時間、というのを見てしまう。
大きな目の玉みたいな模様を背中に背負ってる蛾がいます。日本のそこらへんにもいます。アフリカのジャングルなんかにはいろんな目ん玉模様の蛾がいます。羽を休めると大きな二つの丸の模様。あれはなんのためなんだろう。生物は、進化と淘汰の過程で生き残った種なんだという説明を受け容れるなら、「鳥たちは目の模様に敏感に反応する」ということがあるからこその模様らしいのです。鳥たちは、そこに目みたいなのが二つあるのを見つけると、その目の幅を持つ、そんな顔の大きさを持つ生き物がいるんだ!と瞬時に判断して、うわこわい。あそこに近づいたら自分が危ない。と逃げていくんですって。おいらの大好物の蛾がいるな、と落ち着いて見直せば気づくのに、落ち着く間もなく去っていく。そうやって自分の生命を守ってくれるのが目ん玉模様なんだって。偶然まるい模様を突然変異で持っちゃった蛾が生き残り、子孫を残し、その子孫たちはほかの模様のものよりも効率で生き残るからいつの間にか増えちゃった、ということらしいのです。
つまり何が言いたいのかというと。鳥たちと同じ高等生物たる私たち人間は、同じように、目にはとても強く反応するようにできてるのだと考えてよいだろう。だから、演技していても、手の動き、足の膝の角度、みたいな大きなものより、あんな小さな面積の目の白目と黒目のこと、動きは圧倒的に客になにかを伝える威力が大きい。客は目に注目しているからですね。それは演出などして、客席の反応を感じて、失敗と成功を繰り返してつくづく学習してます。
ひとり芝居はどうやったらいいんだろう。このむつかしい課題に答えはシンプルで、人ががんばるほかない。ものをいろいろ工夫したりもできる。けれど、二人芝居、三人芝居よりもはるかに手は限定されているなあ、と演出していると感じるのです。人は協働してこそ大きな仕事ができる種類の生き物。逆に言うとひとりではあまりたいした仕事ができない弱い生物種なんだ、とここでも感じます。しかし、だからこそ、一人でできることの奇跡を!と力みたくなるのがまたこれ人間で。
ひとり芝居の台本というのは、その役者がその不利、逆境を生きるための最大の土台ですから、その不利、逆境をともに苦しむのが脚本家ということになります。私はまさに今回、星歌さんとともに苦しんだ、という感覚でおります。
おつかれさま、一人芝居の役者たち。星歌さん。そして、脚本家の人たち。鈴江さん。
その悪戦苦闘の傷跡生々しい文字の並びを、ぜひともに味わってほしい、と願っています。