脚本を完成させたTさんへの通信。
鈴江です。
Tさん、おめでとうございます。
台本、できたんですね。
自己評価はどうなのか、私には作者の心の中に渦巻く混沌や混乱が、そのめざしている理想のイメージを中心に周囲からは理解不能な具合にうずまいているだろうことは想像できます。で、自己評価というもの自体が、他者からは理解不能な感じで成立してしまうことも知っています。
だから、きっとどんな言葉を、その作品を完成させたばかりの作者にわたしても、その言葉はしっくりその人の胸には届かないのだろうということを承知しています。だからその人に言葉を渡そうとするこの私のメールは、はむなしい行為だと半分以上はわかっているのですが、しかしやはり、何か渡そうとしないわけにはいかない気持ちを抱えています。
それはなんなんでしょう。
内容はともあれ、限りない共感、そして羨望、だと思ってくれていいです。
なにかを書かねばならないという切迫した気持ちを持ったことへの共感。
書き上げたことへの羨望。
読んで、この登場人物二人が、作者の内面を反映して混乱した感情に満ち満ちて今そこに存在していることがよく伝わってきます。
しかし、あくまでもフィクションとしてそこに二人は存在しています。
しかし、その存在、やりとり、を通して、作者のはげしい気持ちの揺れが透けて見える、それがほかのいかにものんびりしたフィクションの作品よりは強く、強く作用している「透けて見える」効果を持っている。それが、この作品の強さだし、特殊性だし、魅力だ、と思いました。
すんなりと筋の通った、見ている側に感想のまとめようが整うような劇にはなっていないことを、ある人は「混乱した」というでしょうし、「親切な作品ではない」ともいうかもしれません。しかし、感想を整理して言えないその見た人が、これを見て、「何か強く自分は感じた」と感じることは確かだろうと思います。そして、それこそが、演劇やら芸術、表現のめざす「鑑賞」の原初的なありさま、一種の創造行為としての「鑑賞」のありさまだろうと私は思います。岡本太郎です。なんのこっちゃ。そのありさまをむきだしに客に体験させるような力のある作品が、ここに生まれたのだ、と私は評価します。えらそうに言いますが、私は、これを強いひっかき傷として親が子のすねを見る、ような感覚をもたらせるものだ、と形容したいです。たまらない。なにか、こらえにくいなにかを、こちら、読む側が持たせられる。その時間をこちらが持てたことに感謝したい。そんな感覚になりました。
私が「現実はきびしく 私たちは若い けれど要求は唐突で思い切るという手もあるかもしれない」
という長い題名の、長くはない脚本を書いて、東京の小さい劇場で上演したとき、2010年頃かな。照明を手伝ってくれていた大学生Aさんがいて、私のクラスの教え子だったんです。その母親が「一生懸命の劇だから見に来て」と言われて見にきてました。税理士さん。シングルマザーで、税理士さん、という職業です。とても普段からブンガクテキ、とは言えない人らしいですが、その人が、Aさんからいろいろと言われてきたからもあるんでしょう。感想を教えてくれました。娘からしたら、普段は「先生」ってよんでる大人が、自分の劇の稽古場では、「先生」の覆面を外して一生懸命稽古している現場なので、親にいろいろしゃべったのだと思いますが、感想として、
「あんたの先生は孤独なんだね。」
と言ってくれたそうです。Aさんが母の言葉として伝えてくれました。
私は、その税理士さんには、なにか、ショックのある時間を持たせたんだな、とは理解しました。
孤独だったのは劇の主人公であって、私じゃありません。登場人物が恋人を失って孤独になる、という筋だったのであって、私じゃありませんが、その税理士さんは私の孤独を感じ取った、ということらしいのです。
いや、「孤独だね」という言葉を税理士さんが選択したのも、決して心に浮かんだ感じを的確に表出できたわけでもないのだろうから、その言葉自体の意味やむこうがわにあるものを探ろうとしても無意味なのだろう、と思いました。ただ、「孤独」みたいな言葉を、会ったこともない他人様に ずばっ と当てはめようとした、その感じが、他人さまだけれど、近い自分のなにかをそこに見て取ったという事実だけは表出しているのじゃないか、とは思いました。
なんだか、劇をやってよかったな、と思うのはこういうことをあれこれ考える時間で。
人の心になにかさざ波でも立てられたら、それがうれしい、このやりとり自体が価値なんだな、と思うのです。
私は、あなたのこの戯曲に、そんな客とのやりとりを思い浮かべられます。読んだ私は幸福を感じましたよ。それが率直な感想です。ほんとです。
(思い出したので、あらたに「Shiroinuma‘s Store」にその「現実は……」の戯曲を出品しました。ご希望の方はご購入ください。)