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うずめ劇場「ニッポン人は亡命する――決して福井県の『明日のハナコ』事件に取材したわけではない喜劇――」は北九州、大阪、東京での上演をすべて終了!
いやあたいへんでした。たいへんだったと思います。うずめ劇場の方々。それを支えたすべての関係者。お客さん。
鈴江は東京で4ステージ、大阪で2ステージ、アフタートークのお喋りをおおせつかりまして、話しました。
うーん。もうとてもおそろしい。お客さんは今、お芝居を見てなにをどう感じてるんだろうか。それがもう表情のむこう側はとても暗い闇のように思えて仕方ない恐怖心。いや人によっては表情の向かい側も皆さんのお顔の通りにひまわりの花弁のように明るい暖色なのだよ、と思える人もいるんだろうけれど、私はもうやはりなんていうのだろうか、そんな健康的に生まれついてはいないというか、ここまでの育ちが健康じゃないというのだろうか、とてもおそろしいのです。
大丈夫。いや大丈夫きっと大丈夫。そんなおそろしいような感想の人ばかりじゃないってば。言い聞かせながら、私は毎回、舞台に向かいます。
そして。もう。どうにかこうにかしゃべりました。
お客さんたちは、上演が終わってもさっさと帰る人は少数でした。私やゲストの話すことを多くの方が熱心に聞いてくださりました。それはもう舞台でやっていたお芝居が熱かったからだろうと思います。
いつもお芝居を終わると思います。はるか昔に見た高校演劇の上演の中で語られていたセリフを思い出すのです。「演劇は、風に書かれた、文字だ。幕がはねたらただのごみ。」そうやって高校生が上演を終えた台本をびりびりに破る。そういうシーンがあります。そう。舞台作品は、どこかで録画されたり、写真に残ったりしても、けっしてそれがそれだとは言えない、時間空間、肉体、呼吸、匂い、息遣い、そんな再現不可能な一回限りで消えてしまうもろもろのことなのです。
終わった。消えてしまった。そして、残っているのは私の、見た人の記憶の中にだけ、です。
どんなふうに残ってるでしょう。この劇は。その残っている劇と私は対話したい。そんな願いを持ってしまいます。決してかなえられない願いですが。つまり、その一人一人の中に残っている劇は、けっして私の書いた台本でもなく、演じた役者たちの意図のかたまりでもなく、演出家の狙いどおりのものでもなく、そのそれぞれの人のなにか感じる仕組み、フィルターともいうしバイアスともいうし、要するに感性を経て想像された別個のものになってます。それはどんなものなんだろう。機会があればぜひみなさんまたお話ししましょう。気弱な劇作家はそんなことを考えています。
上演の写真を、けっして定着できない記録だとわかっていながらここに紹介しました。どうぞご覧ください。
私の演出する、そして出演する、とても小さい会場でやる、「ニッポン人は亡命する」は2月下旬に今治で。3月1日に鳥取で。倉吉で。行われます。またそれはそれで全然違った味わいのものになります。
また皆さん、そちらもぜひご覧ください。
『明日のハナコ』の事件を、けっして取材してないけれど、私の、私たちの、あなたたちの胸の中でお芝居をやるたびに生まれ変わり、新鮮に、人はなぜ生きるのか、今生きる手触りと劇ってどう関係するのか、表現ってなんなのか、問うてきます。
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上品芸術演劇団「ニッポン人は亡命する――決して福井県の『明日のハナコ』事件に取材したわけではない喜劇――」は今治、倉吉、鳥取でまもなく上演されます!
https://jouhin.wixsite.com/jouhin