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hello


1月17日、25歳になった。
生まれてから24年が経ったということだ。
そんな25歳を迎えた日からの3日間、これまでの「わたし」を見つめるために展示を開いた。



何者かになりたかった自分。
何者にもなれなかった自分。
だけどその過程の中で、わたしはいくつもの自己に出会う。




本展示のテーマの一つにwho am l ? というものがある。
25歳という節目を迎え30に向けて走り出す中で、自分がこの先どうなっていきたいかを考えたとき、今の自分について知ることは必要だと思った。

私は自分の肉体が一つでありながら、様々な自己を自分の中に抱えていた。
何かを表現する上で生まれた自分、誰かに必要とされるための自分、自分がなりたいと思い描いた理想像を投影した自分……いくつもの自己が重なることで、私は本来の自分という存在が掴めなくなった。
そこで様々な自己が生まれる要因の一つとなった表現を通して、自己を見つめようと考えた。



【自らの軸を通して見る自己】


表現といっても、私はほとんど写真を主軸に自己表現をしてきた。
その中でも写真に写るということは5~6年程続けており、表現は私にとっては感情や思考をアウトプットする場であったため、その時の「わたし」が自ずと見えてくることが多い。

写り続ける中で、私は3つの主軸をもとに写真に写って来たことに気がつく。
それらを一つ一つ、紐解いた。



1.纏う

photo_ike




纏うということにおいて、身に纏う衣装や服はもちろん、撮影者の存在すら写真を通して纏うということも示している。
この′′纏う′′をテーマにした作品撮影をした彼は、私が写真を撮り続けるきっかけとなった人だった。
写ることをしていれば一度は誰もが抱くであろう、何故写真をやっているのか?という疑問を抱えていた時期に彼と出会い、彼は私に纏うことを通して自信を与えてくれた。




彼との撮影はどれもお人形さんみたいに′′衣装′′を纏うようだった。私はそれがとても好きであり、確かな恋でもあるのだと思う。
彼が丁寧にリボンを結び私を施してくれたように、私も丁寧に作品を展示したいと思った。




そこで初めて彼と会い撮影した時の写真をモチーフにし、過去を重ねるように再現したのが本展示の作品の一つである。
まるでオートクチュールを纏うような感覚。それは彼にしかないものである。



2.投影

photo_月乃/actor _琥珀ユウ_涼馬ふみ



私には役者を目指している時期があった。
だけど演じる場がないと芝居を形に出来ることはなく、そんな中でも私は自分の内側に溢れ出てくるものやエネルギーをどうにかして出したかった。




そんな時たまたま近くにあった手段が写真で、写真の中でも演じることや自己の内側を投影できることを知った。
この数年間で様々な経験をし、幅が広がったことにより今では様々な写真を撮るが、一時はそんな写真ばかりを撮っていた。だけどその経験があるからこそ今出来る表現があるし、自分の内側にあるものを′′託す′′ことができるのだと思う。それは写るうえでこれからも通ずるものだと考えている。

展示作品の撮影では、実際にこと細かい設定や状況を作り込み、芝居をしながら撮影に臨んだ。それは静止画というよりも映像的なものであり、流れるものを切り取るようなイメージだ。
それこそ映像でやればいい、という意見が出てくると思うが、私にとってたまたま近くにあった現実的な手段が写真であったため、今回の作品撮影でも静止画になるのは必然的なことだった。



写真の中であれば、私は自由に表現することが出来る。
だけどそのために、自分の感情や重ね合わせる′′他者′′と深く向き合うことは大切だ。
それが私にとっての、投影という一つの表現方法でもある。



3.記録


photo by 田中ウエノ


私の中に写真=記録という意識が根付いたのは、約一年半前に彼と写真を撮るようになってからだった。
彼の写真を知っていく中で、私は写ることに対して何かをする必要はないのだと感じるようになる。彼は人という被写体を撮っていて、その対象がたまたま自分であるだけで、そこには何かを着飾る必要はない。理想とか、ビジョンとかを重ねるべきではない相手だと思った。
彼の写真に写る私はただの私。写るなんて準備もなく、ただそこにいるだけ。だから彼との写真はずっと一定の距離感を感じるし、良い意味で来たいも落胆もしない。それはポジティブなことで、私はそこに写るあらゆる自分を自分として肯定することが出来た。そして写すという選択を彼がしたのであれば、私にはそれがすべてのようにも感じられる。




何を選んでも、それはあなたが/わたしが選んだ答え。
そこにあるものは、事実であるということを写真は教えてくれる。




【自己を紐解く中で欠かせなかった′′撮る′′ということ】


展示作品 calm days より

元々は写るということで写真を続けてきたが、いつからか写真を撮るということが生活の一部になっていた。
今ではカメラを持たない生活が想像できないし、フィルム高騰が続く中でもどうにかして撮ることを続けていきたいと強く思っている。
よく写ることもしながら撮ることをしていると、写真を撮ることがおまけのように捉えられることも少なくはない。だけど私にとってはどちらも大切なもので、プライドを持ち向き合い続けている。


写る上では撮影者とのコミュニケーションにより様々な自己が生まれるが、撮るということ、加えて人物ではない写真の多い私にとっては写真は私の目そのものでもあるような気がする。
そしてそれを何故撮るのかという問いの中に、その時私が感じていることであったり残したいと思った特別な理由が必ずあるのだろう。
何故、の中には、曖昧にでも必ず自分の意図は隠れている。




calm daysはここ一年近くの出来事が関わってくる作品で、24歳~25歳になるまでの丁度一年のことだった。
4月、7月とそれぞれ大切な存在をこの世から亡くし、このcalm daysは生まれた。表現というものを差し置いて、記録としてそれらを見た時にそれはよりプライベートな部分であり、心の深部に近い自己に触れることが出来ると思った。



この作品を形にする中で、やがて私は自らの写真に込められている願いの存在に気がつく。
それは同時に、何故写真を撮るのか?という問いの答えの一つでもあった。



【自分は何者なのか】


Illustration_ス山


大切なその問いだが、実はその答えは展示の一番始めに設置したステートメントに出されている。
何者にもなれなかった自分---。つまりwho am l ? の答えは何者でもない自分になるが、そんな私が表現することや生きる中で様々な自己を抱えた時、本当の自分はどこに在るのか…というのが新たな疑問として浮かぶ。

作品を通して結論を出そうと思ったが、結果的にそれは明確な答えとしては出なかった。私は今も、時々自分がどこき在るのかが分からなくなる時があるのだ。

例えば恋人と別れた時、誰かと死別した時、その人と共に生きていた自分の人格が、まるで地に足が着いていないみたいにふわっとすることがある。不思議な感覚ゆえ説明が難しいが、私は他者とのつながりを経て自己が確立されることが多く、それを失った時自分までも見失ってしまうような感覚なのだ。
自分が何者なのかは分からないままだが、私にとって他者の存在は自己の形成や確立において、そして人生においてとても大きいものなのだと思う。
関わる人が変わったり、環境が変化したり、生きる中で何かが変化し続ける限り、私はずっと自分の所在を掴めないままでいるのかもしれない。






【年を重ねるということ】


25になればアラサーだねと言われるように、段々と歳を重ねる内に少しずつではあるものの老いていくものなのだと考えてしまう。
その中で誕生日を迎えることは人によってはネガティブなことで、私自身も出来ることなら20代のまま時が止まって欲しい。しかし当たり前だが、重ねた数字が減っていくなんてことはないし、そうなると一生進み続けるしかないのだ。
そう考えると、常にこの一秒単位(厳密にはもっと細かくもなる)の今が一番若いものだし、何だって出来る。進むしかないのなら、老いることを受け止め、その上でどう生きていきたいのかを逆算すればいい。



私は30になった時、美しい人で在りたいと思うし今よりも強い人で在りたい。その準備を
そのため経験を、この5年でしていきたいと思う。そうやって、少しでも先に進むことへの楽しみを持ちながら一番若い今を過ごしたい。
老いることが嫌なのは仕方ない、だけどそんな中でも今が楽しいとずっと思えるように、′′ステキな大人になる準備′′をしていこうと思う。



年を重ねることはステキだ。自分の背後に歩んできたものがあり、それは年を重ねる程厚みを増していく。
一つ年を重ねるごとに、あなたは/わたしはきっと魅力的な人間になっていく。大切なのは、自分自身を愛してあげることや生まれたことに対して祝福してあげることだ。






【言葉を綴るということ】


最後に、この展示を見て、自分は自分について理解しているだろうか?と思った方もいるのではないだろうか。
しかし、会場で感想と称した′′手紙′′を書いてくれた人なら自分自身についてもう触れることが出来ているはずだ。


勿論展示を見て何かを感じてくれればそれも嬉しいが、言葉を綴るというのはある種選択である。そしてその選択をするにあたり、まず自分が感じたことはあるかと考え、あるならば何を感じて何を伝えたいか、なければ何を書こうか、と考える。
前者の場合、自分が何に対して何を感じるのか、人によってはそれが自己探求に繋がることもあるだろう。後者の場合、誕生日をテーマにした作品(あくまでも本展示に対して)を見て何も感じなかったとして、では何を書こうかと考える時に出てくる言葉がその人を表したりもする。


言葉を用いて伝えるというのは、自分の脳や感情に従う面もある。普段言葉を綴らない人程、こうして外側に出してみることで自分の考えを客観的に知ることが出来ると私は思う。苦手だというひともいるけれど、言葉や文章はその人の人生を表すと私は感じることが多い。実際にいただいた手紙を読みながら、私はまるで人生の追体験をしているような気分にもなった。もちろん、憶測や想像ではあるけれど。
自己について悩んでいる人がいたら、箇条書きでもなんでもいい、言葉に出して、俯瞰してみてはいかかだろうか。そしてあの展示の場が、もしそういった自己の発見に繋がっていたらとても嬉しく思う。






涼馬ふみ/棗涼香個展 
写真展hello

2025.1.17-1.19
ギャルリー・ジュイエ
〒166-0002 東京都杉並区高円寺北3丁目41−10 メゾンジェイエ

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ご来場いただいた皆様に、心より御礼申し上げます。


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