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宝塚で学ぶ日本史と世界史〜星組公演「にぎたつの海に月出づ」編〜

極美慎さんバウ主演おめでとう御座います!
名作を予感させる作品紹介文、素敵なポスターの仕上がりっぷり、極美くんと詩ちゃんの表情から既に溢れ出している美しくも切ない物語。
ここに最近の極美くんの輝きを見るにつけ、東上公演じゃないことが信じられないので、舞姫初演と月雲の皇子パターンの東上だと思っていたんですが…ここで組替えが来るとはーーー!この星組キャスト以外では考えられないほど全員素晴らしかったので…今しかないこの時を大切に観ませう…。

そもそもわたくし「白村江の戦い」が大好きでして。戦争なので大好きというのは語弊があるけど…日本史の中の立ち位置が好き。(きもい)
作品紹介を読んでこんなにテンション上がったのも久しぶりでした!!!自分の頭の中の想像以外で「白村江の戦い」を見たことがないので!!!(落ち着いて)舞台に乗せてくれてありがとうレベル!

…という調子で目を血走らせながら友達に連絡したら「いったい何を言ってるの?まずなんて読むの?」だったので、ヅカオタ界隈に「む、むざん!(あ、これは戦いが起きた663年の覚え方です)はくすきのえのたたかい!」と古代史を広めるべく、そしてこの物語の行間を読みまくるべく、久方ぶりにnote書きます。
ネタバレ盛り沢山なのでご注意を。

まず、「にぎたつの海に月出づ」とは、「現在の愛媛県にあった熟田津という港から見た海に、月が出たよ」という意味です。

古代史なので、史実と言えども諸説あったり、そもそも記録がなくて不明だったり、あとは我々が「月雲の皇子」で学んだように、歴史というのは勝者に都合よく書かれたものなので。
ちなみにこの時代の勝者とは、歴史書=日本書紀を書かせた天武天皇=大海人皇子(藍羽ひより・早瀬まほろ)です。彼にとって都合の良いように書かれた歴史がベースです。正確かどうかはもう誰にもわかりません。でも、だから面白い。「にぎたつの海に月出づ」のパンフレット片手に、出来る限り作品の流れに沿って史実に近いものを読みといてみます。

白村江の戦いって何?

663年に起きた日本史上(ほぼ)初の外国との戦争です。日本の対外戦争デビュー。島国ジャパンなので、もちろん船での海戦です。
朝鮮半島の西側にある白村江という場所で起きた戦争なので、「ハクスキノエ」もしくは「ハクソンコウ」の戦いと呼ばれます。(個人的にハクスキノエ読みが詩的で好きなんだけど、舞台ではハクソンコウ読みで無念)

対戦カードは以下になります。
大和(日本) & 百済(朝鮮)
      VS
唐(中国) & 新羅(朝鮮)
※一般的な読み方は百済(クダラ)、新羅(シラギ)です。

白村江の戦い ©世界の歴史まっぷ

うん、絶対負けるね???
唐でか!!!百済ちっさい!!!無理です!!!
こうして、日本のデビュー戦は大敗に終わるのです。
では何故、こんな無謀な戦いをするに至ったのか…この戦いのあとに残ったものとは…歴史と作品の間を縫いながら、順を追ってお話しさせてください。

6世紀の朝鮮半島

韓国ができる遥か昔、朝鮮半島は4つの国に分かれていました。高句麗・新羅・百済・伽耶(加羅)です。こちらが当時の東アジアの地図。

三国時代(朝鮮半島)©Wikipedia

この朝鮮4国は、とにかく仲が悪い!
だから、なんとか他の国に勝つぞと頑張ります。一国だと心細いけれど、朝鮮内の国とは仲良くできない!近くの中国とか日本とかと仲良くなったら強くなれそうじゃない?ってことで、「これあげるから、うちの味方してくれない?」とプレゼント作戦。
百済の思惑としては、大和の軍事力に期待していたというよりは、地理的に敵=新羅を挟み撃ちしたかったというのが正解な気がします。
大和が何もせずともそこにあるだけで、新羅は後ろを気にしながら百済と戦わなければならなくなるからね。
そんなわけで大和(日本)は、それぞれの国と仲良くなったり、仲悪くなったり、を繰り返します。当時の東アジアは、「昨日の敵は今日の友」状態。

その中でも比較的、大和との仲良し期間が長そうなのは、一番近い伽耶(加羅)と百済でした。特に百済とは4世紀くらいから同盟関係。百済から渡来人として賢い人たちが来てくれ、儒教や仏教などなど、たくさんの知識を教えてくれました。仏像やお寺が作れるようになったのも、百済のお陰です。(百済だけでなく、高句麗や新羅からも渡来人は来ています。ちなみに紙と墨を教えてくれたのは高句麗です。)
島国ゆえ世界の情報が入りにくい大和は「鹿の骨を焼くのじゃ!この亀裂の入り方は…悪いことがおこるぞおおお(太占の法)」「盟神探湯(くかたち)じゃ~!熱湯に手を入れてみろ!それ、邪馬台国の風~!」とかやってたくらい遅れてたので、これがとってもありがたかったのです。

もちろん、情報を得る代わりにちゃんと、ちょこちょこ百済を助けるために出兵したりもしていたのですが。6世紀ごろ、もう一つの仲良し・伽耶(加羅)が分裂して百済・新羅の支配下に入ってしまったことで、大和は朝鮮半島からいったん手を引きます。でもまた7世紀前半には仲良くなってます。
このころには、医学や暦も百済人から教えてもらっています。ちなみに暦…つまりカレンダーの作り方を教えたのが「にぎたつの海に月出づ」にも出てくる観勒僧正(悠真倫)です!みんな、これからカレンダー買うときはまりんさんに感謝してね(違)

一方、中国では618年に隋が滅び、唐という大帝国が成立します。
この唐、律令制度(法律)をはじめ、かなり進んだ国づくりをしていたので、大和は遣唐使を派遣して知識を得ます。

長々話しましたが、ここで大切なのは、百済など朝鮮の国々も、隋も唐も、大和にとっては情報をくれるありがたい存在だった、ということです。

6世紀の大和と仏教伝来

では、6世紀の大和の様子を見ていきます。
百済から仏教が伝わったのが538年なのですが(552年説もあり)、この仏教=外国の神様という存在を、大和として受け入れるかどうかで国が揺れます。いわば、グローバル化するか、しないか、みたいな瀬戸際です。
日本人の性格上、環境が変わることに億劫になってしまう人が多いので反対派もいたと思うのですが、ここで仏教を推したのが蘇我氏。蘇我氏は元々、渡来人と仲良くすることでお金持ちになった一族なのでね。(今も昔もみんなが知らないことを知ってる人は稼げる)
仏教を認めるとなぜ国が変わるのか。それは、仏像やお寺を造るための「技術」も一緒に伝わるからです。建築技術やら土木工事、美術をはじめ、いろんなことを教えてもらえるぞ!と。
だから、大和としては白村江の戦いの100年以上前から、百済に恩義はあったわけです。それと同時に、天皇をもしのぐほどの力を持ち始めていた豪族(お金持ち)の中でも、百済とうまくやれている蘇我氏の力が、大和の中でどんどん強くなっていきます。

この時代…いえ、昭和初期まで?大和にとっての神とは天皇です。これは変えようがありません。しかし、天皇を超えて1番上を目指したのが蘇我氏です。
普通、権力者は宗教を嫌います。絶対的な神や仏がいると、自分が1番上じゃなくなる可能性が出てくるからね。でも大和に生きる蘇我氏にとっては、絶対的な神である天皇を凌駕する仏がいる仏教というのは、都合が良かったのです。だって、仏教を利用すれば、天皇より上にいけるかもしれないでしょ?
作中でも蘇我蝦夷(輝咲玲央)が「僧は国ではなく仏に仕えているから、悪さをしても天皇には裁けない」と言っていましたね。都合良い〜!

593年 推古天皇(瑠璃花夏)が即位

日本史上最初の女帝。父は天皇、母は蘇我氏とかいうバリバリの政略結婚の末に生まれた蘇我派閥王族娘です。蘇我氏は娘を皇后にし、生まれた子を天皇にすることで権力を得ていたので、この時代では最強の血ですね。
当たり前のように18歳で、敏達天皇の后になります。しかし結婚14年目に夫である天皇が崩御。先立たれてしまいます。
そしてそのあと、兄の用明天皇が即位するも病死。
続いて即位したのが、推古天皇の弟・崇峻天皇です。しかし、力を持ちすぎた蘇我氏を遠ざけようとしたため、蘇我馬子(蘇我蝦夷(輝咲玲央)の父)に暗殺されてしまいます。日本史において、天皇が暗殺されるなんてとんでもない事件は後にも先にもこれが唯一。これだけのことをしても政治の世界から追放されないなんて、蘇我氏がどれだけ大きな権力を掌握していたのかがよくわかりますね。
そして、次の男子の皇位継承者が蘇我氏出身ではなかったのと、その他さまざまな思惑が渦巻く中、593年に推古天皇(瑠璃花夏)に白羽の矢が立ち、即位します。このとき39歳。こうして日本史上初の女帝が誕生したのです。

作中で推古天皇(瑠璃花夏)が「♪夫も弟も我が子も亡くした」と歌っていたり、政治を助けてくれた甥の厩戸皇子(聖徳太子)にも先立たれてしまったことを話していたりしていました。ここは史実通りで、国母として強く逞しく国のために民のために尽くした大王(おおきみ)なのです。強かさと逞しさと、人としての大きさがとてもよく出てて、瑠璃花夏ちゃんさすがのお芝居だよね。

594年 寶皇女(詩ちづる)が誕生

ここからは寶の人生に沿って「にぎたつの海に月出づ」に関わる歴史を辿っていこうと思います。やっと本題!
寶皇女(詩ちづる)と弟の軽皇子(凰陽さや華)は、推古天皇の夫・敏達天皇の孫である茅渟王(美稀千種)と蘇我氏の血を引く吉備姫王(七星美妃)の間に生まれます。
寶もまた、蘇我氏と王族の血が流れているのです。まぁでも吉備姫王(七星美妃)の祖母が蘇我氏だったというくらいで、蘇我氏の血はだいぶ薄まっているので、これくらいだと蘇我氏系とは言えないらしい。そもそも蘇我氏の血が入っていなかった説もあるくらいです。
ちなみに、寶パパ・茅渟王(美稀千種)の父は、押坂彦人大兄皇子という人なのですが。寶が生まれる1年前、593年に生まれた田村皇子(稀惺かずと)のお父さんも押坂彦人大兄皇子です(笑)茅渟王(美稀千種)にとれば、自分の弟と自分の娘が結婚する…そんな時代ですね。さらに、現在の皇室は押坂彦人大兄皇子の男系子孫にあたるそうな。令和まで続く血筋。お強い。

作品の中で、田村皇子(稀惺かずと)が「遊んでるときに泥をつけて微笑んだ君に恋をした」とかなんとか、めちゃくちゃ素敵に歌う場面が切なくて大好きなのですが、史実でも1歳差と考えると…ありえる話だよなぁ。可愛い二人だったんだろうなぁ、と想像が膨らみます。

寶皇女(詩ちづる)と高向王(颯香凜)の結婚

作中で寶(詩ちづる)が家のために結婚したと言っていましたが、高向王(颯香凜)は蘇我氏との関係が深い&天皇の孫なので、間違いなくそうでしょうね。年代的にはたぶん614年くらい(寶・20歳)かなぁ。二人の間に息子(漢皇子)が生まれたことも、早くに亡くなってしまったこともおそらく史実通り。離婚した理由はわかりません。作中では酒におぼれて乱暴者になってしまったと語られていましたね。
実際のところは…天皇家としては、やりたい放題である蘇我氏とのつながりを薄めたかったんじゃないかなぁと私は思ってます。寶は聡明な姫だったでしょうから、蘇我氏と縁が薄い田村皇子(稀惺かずと)と結婚させて、良い天皇を産んでもらおうとしたのかもしれません。

626年 中大兄皇子(茉莉那ふみ・碧音斗和)誕生

はい!おそらく結婚前にお産まれですわよ!!
年号の記録が間違っているのか、結婚前からもう内々には決まっていたのか、何かの間違いなのか、♪父親は誰だ~状態なのか、寶皇女(詩ちづる)と田村皇子(稀惺かずと)は幼いころから愛を育んだ運命の2人だったのか、はたまた寶と百済人の青年・智積(極美慎)との道ならぬ朝顔に誓った愛と別れゆえなのか…全部ありえるし、全部ありえないかもしれません。古代史って想像や妄想が無限大で面白いんだよ~~~。

まぁでも教科書やらの史実では普通に、田村皇子(稀惺かずと)寶皇女(詩ちづる)の子です。そりゃあそう。

628年 推古天皇(瑠璃花夏)崩御

推古天皇(瑠璃花夏)の治世とはそのまま蘇我氏の全盛期でした。蘇我馬子の姪である推古天皇、蘇我馬子の甥である厩戸皇子(聖徳太子)、そして大臣である蘇我馬子という三者による蘇我一族の政権が、推古天皇の死によって、ついに終わりを迎えます。横暴があったことは間違いないだろうけれど、蘇我一族は確かに、冠位十二階や十七条の憲法など、国家の礎を築きました。

でもこの政策ってみんな厩戸皇子(聖徳太子)がしたこととして覚えたよね?こんな素晴らしい大仕事を一人でやったわけないのよ。だから近年では、蘇我氏の功績として残したくなかったから聖徳太子という架空の人物がしたことにして書いた、とかいう説も出てきたりしています。日本書紀を作った大海人皇子(藍羽ひより・早瀬まほろ)めっちゃ蘇我氏嫌いやん。笑

629年 田村皇子(稀惺かずと)が舒明天皇として即位

「にぎたつの海に月出づ」では推古天皇(瑠璃花夏)田村皇子(稀惺かずと)を指名していたけれど、実際は決めきれないまま亡くなったっぽい。
ではなぜ推古天皇の甥・厩戸皇子の息子である山背大兄王ではなく、関係の薄い田村皇子(稀惺かずと)が即位することになったのか。それは、蘇我蝦夷(輝咲玲央)が推したからです。理由は簡単で、妹の蘇我法堤郎⼥(二條華)田村皇子(稀惺かずと)との間に息子・古人大兄皇子を産んでいたからです。こちらの方が後々、蘇我氏の血が濃い天皇を誕生させられるぞ、と。ほかにも、自分の思い通りに動かせそうな気の弱い皇子だったからとか、さすがにまた蘇我氏派閥の天皇を即位させたら他の豪族に睨まれそうとか、理由があったみたい。

作中では田村皇子(稀惺かずと)という馬を乗りこなそうとする蘇我入鹿(大希颯)の姿が描かれていて、同期対決キャーとなりますが、史実ではこの頃の大臣はまだ蘇我蝦夷(輝咲玲央)なので、入鹿はそこまで表舞台に出てきていません。ただ、蝦夷の手となり足となり、影で暗躍していた可能性は高いので…想像が膨らみます。

630年 寶皇女(詩ちづる)と舒明天皇(稀惺かずと)の結婚

ここで結婚です。寶が37歳、田村が38歳の時。茅渟王(美稀千種)の謀反をでっちあげて智積(極美慎)をハメてましたが、あれは史実ではなさそう。
とはいえ、なかなか大変でしんどい治世だったのは想像できます。権力を持っているのは依然、蘇我蝦夷(輝咲玲央)だから、もちろん色々言われて苦しめられたことでしょう。さらに、わざわざ作った住まい、岡本宮は6年ほどで焼失してしまう不幸も史実通りです。出火の理由はわからないけどね。
そして、干ばつで作物がとれなかったのも、仏塔を建てたのも本当。その仏塔は今も奈良にありますが、そのお寺の名前はなんと、百済寺。ほう。

「にぎたつの海に月出づ」はフィクションですが、随所でリアリティを感じてしまうのは、こういう細部の作りこみと史実の拾い方ゆえだろうなぁ。

631年 百済の王子、扶余豊璋(御剣海)が大和に来る

扶余豊璋(御剣海)が人質として大和に連れてこられた年は諸説あるみたいなんだけど、日本書紀には631年と書かれています。
作中でも、扶余豊璋(御剣海)中大兄皇子(茉莉那ふみ・碧音斗和)が仲良く遊んでいる場面があるので、「にぎたつの海に月出づ」の世界も、全体的に日本書紀ベースの時系列な気がしています。
あの茉莉那ふみちゃんの中大兄皇子、5~6歳っぽいもんね。ゲェッ
実際の二人がお友達だったかはもちろんわからないけれど、尾崎桂治著「飛鳥京物語」でも二人が頼りあっている描写があったり、調べてみると、実は扶余豊璋(御剣海)は中臣鎌足と同一人物なのでは!?なんてビックリな逸話もあったり。
実際、中大兄皇子と中臣鎌足は、南淵請安(しょうあん)の塾で仲良くなっています。今回の「にぎたつの海に月出づ」でも、中臣鎌足が出てこないかわりに、本来は中臣鎌足である請安先生の塾=請安塾のお友達ポジに扶余豊璋を置いていたので、案外、平松先生もこの説がお好きだったりするのかも?
いずれにせよ、二人が仲良く国について語り合ってた可能性はありそう。

ここの104期同期の二人の目がキラキラしていて、まだまだ希望に満ちあふれていて本当に素敵だよねぇ。そして観劇2回目からは切ないやつ。

641年 舒明天皇(稀惺かずと)崩御

実際の死因はわかっていません。作中では蘇我氏が毒を飲ませてゆっくり死に向かわせていましたが…蘇我氏ならやりかねないと思ってしまう描き方でしたね。息子たちは、中大兄皇子(碧音斗和)でさえまだ15歳。無念だったことでしょう。

ここの智積(極美慎)と舒明天皇(稀惺かずと)の場面、極美くんと稀惺くん、そして詩ちゃんのお芝居が素晴らしすぎて、涙なしには観られません。そして平松先生の鮮やかすぎる伏線回収に舌を巻く。
さらに、中大兄の碧音斗和くんが自らの出生の秘密に気付くお芝居を綿密に積み上げてきたからこその、あの助太刀…無理。生涯最大の政敵である蘇我入鹿(大希颯)に歯が立たない15歳の中大兄皇子(碧音斗和)の心に刻まれた傷。それが見えるようなお芝居が本当に素晴らしいの。
覚従(碧海さりお)の智積への想いにも本当に泣ける。智積にとっては、全てを肯定してくれる生涯の友。その友の助太刀に対しての感謝と、別れのお願いをする智積に対して「あいわかったぁぁぁ」なんですよね。覚従は自分が寶たちと共にここを去れば智積がどうなるのかなんて、全てわかっていたはずなんですよ………すみません、史実から離れてしまった。戻ります。

ただし、史実では遺勅(いちょく。天皇の遺言書)はなかったそうです。
天皇候補は、中大兄皇子(碧音斗和)蘇我法堤郎⼥(二條華)田村皇子(稀惺かずと)の息子・古人大兄皇子、厩戸皇子の息子である山背大兄王の3人でしたが、誰を選んでも誰かが怒る…じゃあいったん寶皇女(詩ちづる)さまお願いします!という感じだったみたい。中継ぎ登板だね。

642年 寶皇女(詩ちづる)が皇極天皇として即位

このとき寶は49歳。この年の夏もまた、干ばつで民たちは大変苦しい生活をしていました。当時、干ばつなどの自然現象は、政(まつりごと)をしている者たちのせいだとされていました。そこで、蘇我蝦夷(輝咲玲央)たちは雨乞いをしますが全く雨は降りません。
その様子を見かねた皇極天皇(詩ちづる)が自ら雨乞いをしたところ、見事に雨が降ったので、民の人気を集めたという逸話があります。雨乞いの成功により、蘇我氏よりも天皇の力が大きいのだと、権威を世に知らしめたわけです。

645年 乙巳の変と大化の改新、皇極天皇(詩ちづる)退位

さぁ。物語の中では、覚従(碧海さりお)の素晴らしいストーリーテラーっぷりによって数秒で終わった大事件のお話をします。

雨乞い負けしたとはいえ、蘇我蝦夷(輝咲玲央)たちは調子に乗り続けています。天皇の血をひいてない蘇我氏の子まで「蘇我の子なら王子だ!」と言い出すなど、王様気取りの振る舞いを続けていました。
蝦夷が勝手に大臣にした息子・蘇我入鹿(大希颯)も、もちろんイケイケのノリノリです。入鹿は、叔母・蘇我法堤郎⼥(二條華)田村皇子(稀惺かずと)の息子・古人大兄皇子を天皇にするため、なんと厩戸皇子の息子である山背大兄王を襲撃し、自害に追い込んでしまいます。これにはさすがの蘇我蝦夷(輝咲玲央)も激怒したとか。

さぁ、そして起こったのが乙巳の変(いっしのへん)です。
蘇我氏の横暴に対して、我慢の限界を迎えた中大兄皇子(碧音斗和)は19歳の青年に成長しています。もうあの頃の彼ではない。請安塾の帰り道、お友達の中臣鎌足と共に、蘇我入鹿(大希颯)暗殺計画を考えます。
そして、ちょうど皇極天皇(詩ちづる)の御前である儀式が執り行われる日。中大兄皇子(碧音斗和)たちは、屋敷に潜みます。しかし、刺客たちは、蘇我入鹿(大希颯)の迫力に怖気づいて汗と震えが止まりません。勘の鋭い入鹿が異変に気付き、不審に思い始めたことを感じ取った中大兄皇子(碧音斗和)は、自ら飛び出し、蘇我入鹿(大希颯)に斬りかかったのです。
蘇我入鹿(大希颯)皇極天皇(詩ちづる)に命乞いをしますが、皇極天皇は無言でその場から去ったそうです。そして、入鹿死亡。
中大兄皇子(碧音斗和)は「大臣・蘇我入鹿、討ち取ったり!」と高らかに叫びます。(詳しくは星組公演「鎌足」をご覧ください。瀬央ゆりあさん中大兄がとてもかっこいいです。)
翌日、中大兄皇子(碧音斗和)は兵を率いて、蘇我蝦夷(輝咲玲央)の館へ。蘇我氏以外の豪族たちもみんな中大兄皇子に従い出兵します。最期を悟った蝦夷は、自ら館に火を放ちました。自らの命と共に、蘇我氏の栄華に幕を引いたのでした。

「にぎたつの海に月出づ」の世界線だと、この乙巳の変は中大兄皇子(碧音斗和)寶皇女(詩ちづる)にとって、愛する人=智積(極美慎)の敵討ちという意味合いが追加されるわけであります。なんて壮大なフィクションなんだ…!!!

この大事件の翌日、皇極天皇(詩ちづる)は責任を取る形で、弟の軽皇子(凰陽さや華)に位を譲り、彼は孝徳天皇として即位します。孝徳天皇は、中大兄皇子(碧音斗和)と中臣鎌足と共に「大化の改新」を行います。新しい政治方針を打ち出したのです。
新方針の1条は公地公民でした。これまで天皇家や豪族が支配していた土地を国家(天皇)のものとし、公平に民に分け与えて耕してもらう代わりに、給料を支払う仕組みです。

これは、物語の中で、寶皇女(詩ちづる)智積(極美慎)に教えてもらい、推古天皇(瑠璃花夏)に進言していたこと。ついに時を経て、他でもない中大兄皇子(碧音斗和)たちの手で現実のものになったのです。

しかし、この時代も長くは続きません。孝徳天皇が病で亡くなってしまうのです。

655年 孝徳天皇(凰陽さや華)崩御、寶皇女(詩ちづる)が再び、斉明天皇として即位

一度、天皇を退位した人物が、再び即位することを「重祚(ちょうそ)」といいます。寶は日本史上初の重祚であり、寶のあとは8世紀に孝謙天皇→称徳天皇であったのみ。現代に至るまで重祚は行われていません。日本史上に2人だけ。強く逞しくあろうとした寶皇女(詩ちづる)だからこその偉業なのです。このとき62歳です。

660年 百済が滅ぼされる

百済は、高句麗と一緒に新羅を攻めていました。
しかし、高句麗(下の地図の右上にあるオレンジの所)を狙っていた大国・唐は、先に百済を滅ぼすために新羅と手を組みます。
唐としては、百済を滅亡させれば、高句麗を孤立させることができ、朝鮮半島を全て手に入れられるという勝算があったわけです。
唐は、水陸合わせて13万という大軍で百済を攻め、背後から新羅も攻め込みます。挟み撃ち作戦は成功。なすすべもなく百済王たちは散り散りに逃げ、ついに百済は降伏し、滅亡したのです。

©世界の歴史まっぷ

661年 斉明天皇(詩ちづる)崩御

百済は滅亡し、百済王も連行された先の唐で病死します。
しかし、まだ王族は残っています。生き残った百済の民たちはまだ諦めてはいません。各地で百済復興のための兵を挙げます。
その中でも1番大きな勢力が、大和にいる扶余豊璋(御剣海)を将とする勢力です。大和さえ、味方になって兵を出してくれれば、百済の残党と大和の水軍とで、新羅を挟み撃ちに出来るのです。
大国・唐がバックにいる新羅と戦うなど、無謀なようですが、大和にも全く勝算がなかったわけではありません。
ひとつは、百済を滅ぼした唐が、本来の目的である高句麗と戦っており(実際、滅ぼせたのは668年と、結構時間がかかっています。)そちらが忙しそうだったということ。もうひとつは、新羅の武烈王が病死して国がグラついていたこと。
勝つことができれば、東アジアにおいて、大和という存在を強く知らしめることができる…参戦しなかったとしてもどうせ大国・唐が次に攻めるのは大和なのでは…百済が本当に滅亡してしまえば、朝鮮半島やその先の情報が入らなくなってしまう…ここで百済を復興させることができれば完全な味方になってもらえる…
さまざまな思惑が渦巻く中、斉明天皇(詩ちづる)そして、中大兄皇子(碧音斗和)は百済を助けるため、国を挙げて戦うことを決意するのです。
大和にとって「意味のある戦い」だと。

このあたりの、決して智積(極美慎)への愛や百済への恩義だけで兵を出したわけではない、聡明な強さを感じられるのが詩ちゃん寶の素晴らしいところだなぁと思っています。
そして、碧音くんの「時代の覇者」たる片鱗が見えるような頼り甲斐のある強い瞳と、全てを悟った上で強さのあるお芝居も素晴らしいのよ。

斉明天皇(詩ちづる)は自ら船に乗り、筑紫を目指します。その途中の地、熟田津で詠まれたのがこの歌です。

熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう!

戦に向けて鼓舞をする、力強い歌なのです。
この歌は、かつての寶皇女のように、斉明天皇に仕えていた額田女王(美玲ひな)が詠んだとされていますが、斉明天皇(詩ちづる)が詠んだという説もあります。だからこそ、ラストに詩ちゃんが静かに歌うこの歌に、感動しました。
しかし、既に御年68歳の斉明天皇(詩ちづる)にとって、船での長旅は体にこたえました。戦いの火ぶたが切られる前に無念の崩御。

「にぎたつの海に月出づ」の中では、罪人となり百済へ小さき船で帰ろうとする智積(極美慎)が詠んでいましたね。自らを鼓舞するかのように歌を詠み、しかしながら穏やかに、悲しそうに、愛おしそうに、小舟へと向かう極美くんの美しい愛の化身のような姿が忘れられません。
寶皇女(詩ちづる)が生涯最後の大仕事を前に、同じく百済へ向かう船を…大きな船を見て、幾年も心を離れなかったであろう愛する人の歌を詠んだという流れ…痺れますよ、平松先生。

662年 中大兄皇子(碧音斗和)が天智天皇として即位

天智天皇(碧音斗和)は36歳になりました。長い皇太子期間を経て、ついに天皇になります。
約束通り、扶余豊璋(御剣海)を百済に返し、そして、母の遺志を継ぎ白村江の戦いに参戦するのです。

663年 白村江の戦い

大和(日本) & 百済(朝鮮) 兵力27000人
      VS
唐(中国) & 新羅(朝鮮)  兵力13000人

https://www.touken-world.jp/tips/10556/

大和は百済のために、とんでもない数の出兵を行います。
数で勝る、大和・百済連合軍ですが、しかし。
大和軍の戦法は「とにかく突っ込め」という感じでほぼ無策。しかも百済側も意思疎通がうまくいっておらず、しまいには仲間割れまで起こり。
すったもんだの末、唐・新羅連合軍の前に、大敗してしまうのです。

作中では、序盤に一瞬で終わってしまう白村江の戦いの場面。祖国・百済だけでなく大和をも愛してくれている扶余豊璋(御剣海)の真っすぐさ、お互いの無事を祈り合う中大兄皇子(碧音斗和)と扶余豊璋の友情に泣けます。

天智天皇(碧音斗和)の治世

白村江の戦いのあと、天智天皇はすぐにその失敗を生かして、大和を守ります。九州に配置した「防人(さきもり)」という兵役は有名ですね。
唐が攻めてくることはありませんでしたが、朝鮮半島で生まれた敗者の難民たちが日本に亡命してきました。天智天皇は、この中から才能ある人を積極的に登用、つまり地位を与えました。彼らの活躍によって、大和は天皇を中心とした国づくりが急速に進んでいきます。
かつて智積(極美慎)寶皇女(詩ちづる)が夢見て語り合った大和の姿は、中大兄皇子=天智天皇(碧音斗和)によって形になっていくのです。

一方、中大兄皇子(碧音斗和)大海人皇子(早瀬まほろ)の兄弟といえば、額田女王(美玲ひな)をめぐっての恋物語ですよね。
ここのところはもう宝塚歌劇の名作「あかねさす紫の花」を観てください!!!!!あんなに仲良しだった兄弟が、物語ラストで不穏な空気を醸し出し、船が割れ逆方向に別れていく演出は、まさに「あかねさす紫の花」を予感させるもので、ゾクッとしました。
デュエダンの最後の方でも「あかねさす紫の花」の主題歌「紫に匂う花」の「君を恋い君を慕いあてどなくさまよう♪」の旋律を重ねている所があるよね???ふわっと浮かび上がって感動した…
なんせ碧音くんと早瀬くんのお芝居上手いのよ。あの短い時間でここまで、次の時代を想起させてくれるなんて!

672年 天智天皇(碧音斗和)の崩御と壬申の乱

もうこのへんは物語のかなり後の時代なのでさくっといきます!
天智天皇(碧音斗和)には息子がいて、大友皇子といいます。前々から次の天皇は大海人皇子(早瀬まほろ)だと決まっていたのです。しかし、日がたつにつれ天智天皇は息子に位を譲りたくなってしまいます。そして、死期が近づいたとき、弟の大海人皇子(早瀬まほろ)を呼びます。
「ごめん。24歳になった大友皇子を天皇にする。見守ってやってくれ。」
この申し出を大海人皇子は受け入れ、なんなら自分にもう野心がないことを示すために吉野の山奥で隠居をはじめます。天智天皇は安心して息を引き取ります。
が、しかし!死後に大海人皇子(早瀬まほろ)はすぐに吉野で挙兵!クーデターを起こします。兵を率いて大友皇子を襲ったのです。これが、大和の国を二分して戦われた壬申の乱です。負けた大友は自害。大海人皇子は天皇となります。

673年 大海人皇子(早瀬まほろ)が天武天皇として即位

はい、最後に勝ったのは大海人皇子(早瀬まほろ)でした。
天武天皇は本格的に律令制度を整えていきます。盟神探湯などの占いや雨乞いなどのまじないで国をおさめるのではなく、法律で国を治めようとするのです。今の日本に繋がる、国の礎を築いていきます。智積(極美慎)寶皇女(詩ちづる)、そして田村皇子(稀惺かずと)の遺志は紆余曲折ありながらも、2人の息子たちによって、今の日本へ向かう大切な歩みとなったのです。終わり!

余談ですが。
このnoteにも何度か出てきた、飛鳥・奈良時代の重要な歴史書・日本書紀は大海人皇子(早瀬まほろ)が大きくなって天武天皇として即位したときに書かせたものです。なので、天武天皇にとって都合の良いことしか書かれていません。基本、蘇我氏のことはボロクソ。有名な話ですが、蘇我馬子と蘇我入鹿の名前を合わせると「馬+鹿=馬鹿」になるように名前をつけています。兄の天智天皇への書き方もけっこう厳しい感じです。理由は…おそらく愛憎です。「あかねさす紫の花」をご覧ください(笑)
母の寶皇子の所は、都合の悪い最初の結婚とか、実は蘇我氏の血をひいているかもとかそういうことは一切書いていません(笑)なんなら母の失敗を兄・天智天皇の仕業にしていたりだとか。
まぁ諸説ありますし、本当のところはわかりません。

長々お話しましたが、言いたいことはひとつだけ。
「にぎたつの海に月出づ」は名作です。ありがとうございました!

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シシ舞
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