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【日記】 「あ、満ちた」と感じる瞬間。感覚を言葉にするということ。

5月1日。月曜日。

ゴールデンウィークの合間の平日。子どもたちは普通に学校があるので、いつも通り登校していった。連休の合間の平日。親にとっては一呼吸つけてありがたい。二日後にはまた五連休が始まってしまうので、今日は一人で自分の好きなことをしようと決めていた。

何週間か前に訪れたカフェで食べたレモンタルトがすごく美味しくて、でもそれは期間限定メニューで五月の連休までの提供だと聞いていたので、終わってしまう前に一度食べに行きたいと思っていた。連休の狭間の今日こそ、ピッタリなタイミングなので、今日はそのカフェを再訪することに。店のオープンに合わせて、電車に乗ってそのカフェに向かった。今日は朝からいいお天気。

カフェに向かう前に、同じ駅にあるお気に入りのお店に立ち寄った。個人でやっているブラウニー屋さん。私がこれまで食べてきたブラウニーの中で一位二位を争うくらい好みの味と食感。駅から少し離れた場所にあるのだけど、わざわざ訪れる価値あり。とはいえ自宅からは電車で何駅か離れた場所にあっていつでも簡単に買いに来れるわけではないから、逆に何かの用事でこのブラウニー屋さんのある駅に来たときは、ほぼ毎回立ち寄っている。

販売されているブラウニーにはいくつか種類があるのだけど、今日はオープン直後に訪れたおかげで、まだ全種類揃っていた。本当に人気のお店で、オープンから一時間も経つと売り切れの種類続出なのだ。今日はオリジナルブラウニー(ピーカンナッツが乗っている)を一つとチョコチャンクブラウニーを二つ買った。日持ちするし、せっかくはるばる買いに来ているので、来たときは少し多めに買って帰る。これから来る連休に、自分のご褒美としてちょびちょび食べていこうと思う。

ブラウニー屋さんに寄ってからお目当てのカフェに向かうと、ちょうどカフェのオープン時間に到着して、窓際の好きな席へ案内してもらえた。注文は迷わずお目当てのレモンタルトとホットのロイヤルミルクティ。前回訪れたときとまったく同じメニュー。一度気に入ると、とことん同じものを食べたがる性質がある私。

持参した本を読みながら待っていると、レモンタルトとミルクティが運ばれてきた。今日も店員さんの接客がとても丁寧で心地よい気分になる。カフェの一番隅っこの席なので、気兼ねなく過ごせるのもいい。

最初にミルクティーを一口いただく。その後、タルトにフォークを伸ばした。サクサクのタルトの上に、酸っぱいレモンクリーム、その上に少し酸味が和らいだ甘めのレモンクリーム、そして一番上に柔らかいホイップクリームが乗っている、三層のクリームのタルト。ゆっくり一口目をいただくと、口の中に三層のクリームと香ばしいタルトの味が広がって一気に幸せ気分。「これこれ、これが食べたかった…!」と心身ともに震える感覚。そのまましばらくは、休むことなく、思う存分タルトを口に運んだ。

すると、何口目だったか、ちょうどタルトの半分くらいまで食べ進めたとき、不意に、「あ、満ちた」と感じる瞬間があった。

どういう感覚かというと、前回このカフェでレモンタルトを食べて「もう一度食べたい!」と思ってから、ずっとこのタルトの味を思い浮かべて欲していたその感覚がようやく満たされて終わった感覚。「満たされた」という表現をすると、私という人間が主体となって「私が満たされた」という感じになるのだけど、私の感覚では、私という個人の満たされた感覚だけでなく、「レモンタルトを欲している私がいる状況」全体が「満ちた」という感覚。だから「満ちた」と「満たされた」といる表現には少し感覚の違いがある。

それで、この「満ちた」という感覚に到達するのは本当に瞬間的なもので、例えて言えば、空のコップに少しずつ水を入れていって、最後の最後にそのコップが水でいっぱいになる瞬間、という感じ。コップに水が満ちていくのには少し時間がかかるけど、最終的にコップ一杯になる瞬間は一瞬、みたいな感じ。

そうやって私が感じる「あ、満ちた」という瞬間は、実は今回のように食べ物への欲求だけでなく、他のことにも感じることがある。

例えば、ハマっている趣味だとか、取り組んでいる仕事だとか、人間関係だとか。それまで思いっきりハマっていた趣味なのに、ある瞬間、「あ、満ちた」と感じると、その趣味に急激に興味を失ったり。それまで一生懸命取り組んできた仕事なのに、ある瞬間に「あ、満ちた」と感じると、もう自分の中でその仕事を続けることが不自然に感じて手放していくことになったり。飽きた、とも少し違う。本当に「満ちた」と表現するのが自分の中で一番しっくりくる。

自分で書いていて、何を書いているんだ、という感じだけど、私が感じるこの感覚を言葉にするって、本当に難しい。そもそも、人が感じる感情や感覚というものは、100%言葉にするのは無理だと私は日頃から思っているのだけど。

私たちの言葉というのは思考からくるものであって、あくまでも「頭で考えたもの(言葉・表現)」だから。一方、感覚や感情というものは、自分の心とか体とかで感じたり、体感するもの。それを頭で考え出した言葉で完ぺきに表現することは、永遠に不可能なのだろうと思う。

それでも、自分があるとき感じた感情や感覚を、自分のできる限り表現したいという思いはある。だって私は、こうやって常に自分のことを書き続けているわけで、その行為が少なくとも今は自分の生活の一部なのだから。自分というものを、自分の感じたことを言葉で表現することを諦めたくはないと思う。

それでもやっぱり、感覚や感情を言語化することの限界は常日頃感じたりする。でも、それでも、なお。私は言葉で表現することを、こうやって文章で書いていくことを、やめてしまいたくはない。

この「満ちた」感覚を味わったあとは、レモンタルトへの向き合い方が、自分の中で少し変わったりする。ここまで食べていたときの渇望のようなもの、「もう一度食べたい!」と欲していた身体にレモンタルトの味が染み渡るような、強烈な感覚は身を潜め、あとは、なんだか少しの余裕を持って、味は変わらないまでも、とても優しい感覚でゆったり味わっていくことができるようになる感覚。そうして、ときどきミルクティを間に挟みつつ、念願だったレモンタルトを食べ終えた。

とても「満ちた」気持ちでカフェをあとにする。また来年、同じ季節にレモンタルトと再会できるかな。

カフェを出れば、レモンタルトを食べ終えれば、また日常。また電車に乗って帰宅して、夕方子どもたちを出迎えて、夜は夕飯を作って、寝る前に推しのライブ配信を聴いた。

何気ない日常の中にある、強い感覚とそれが満ちる瞬間。同じ世界の出来事なのに、それは毛色が違うというか、私の生きる世界の中で、いろんなものが混ざり合う。そのすべてが愛おしい。


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