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今思い返すと恥ずかしい、ブンブン言わせていた新卒の私

私は就職してすぐの20代前半の頃、勘違い野郎だった。
幼稚だった、と言ってもいい。
思い出すだけで、頭がくらっとして冷や汗が出てくるような言動をしていた。

例えば、職場でのヘアスタイルについてだ。

新卒でバイト経験も乏しかった私は、仕事ができる類ではなく、周囲に迷惑をかけたり助けてもらってばかりだった。

それにも関わらず、私の目下の心配事は職場が「お堅い」ことであり、ルールがあるわけでもないのに、髪を染めたりおしゃれな服を着たりピアスをしたりしてはならない「空気」があることに憤っていた。

もちろん、お客様対応や受付などの対外的な職種であれば、私も「きちんとした」身なりをすることの意味は分かるし、特に反発はしなかっただろう。

しかし、私の配属は内部管理の事務職で、関わる人間はみんな社内の人ばかりだったので、そろって黒髪でオフィスカジュアルをまとわなければならない必要が理解できなかった。

そこで私は、髪を思いっきり染めることにした。
ひそかなる反抗だ。
自分の中では、「クールな」行動だった。
古臭い考えの職場にメスを入れてやる、くらいの気負いがあった。

髪をブリーチしてから色を入れ、ゴールデンレトリバーのような毛色になった私は、次の日なにくわぬ顔で職場に到着した。

優しい先輩たちは、みんな「髪、明るいね!」とさわやかに言うのみで、なにか注意を受けたりしたわけではなかった。

しかし、後に仲良しと思っていた他の部署の先輩から影で「金髪ブタ野郎」と呼ばれていたことを知った。

「ブタ野郎」は単なる悪口としても、金髪についてはそのとおりだった。
自分は多少の反発は覚悟をしていたものの、いつも仲良くしてくれていた先輩方から「ノー」を言われたことに傷ついた。

そして、自分の行動は本当に正しかったのか、なにか良くない点があったのではないかと考えてみた。
お堅い上司から嫌な顔をされるのは覚悟していたが、同年代の同僚からも嫌がられるとは思ってもいなかったからだ。

もちろん、前時代的な古くて悪しき風習は取り除かれるべきだ。

しかしそれは、その集団に受け入れられる形で行わなければならない。
つまり、内部の協力者がたくさんいなければ達成できないし、自分だけが孤立してしまったとしたら、それはただの「面倒くさいやつ」や「空気の読めないやつ」でしかない。

なぜなら、本当に正しくて好ましい理念だとしたら、協力者が出てきて孤立はしないはずだからだ。
「最初に声をあげてくれてありがとう」と感謝されるはずだからだ。

しかし私の場合、完全に独り相撲だった。
ということは、何かが完全に間違っていたのだ。

自分の言動の何が間違っていたのか。
そこで思い当たったのは、動機だった。

私が髪を金髪のように染めた動機は、その髪色でいることで自分が心地よいし、自分らしくいられるから、というポジティブなものではなく、職場の堅い雰囲気が嫌だから、というネガティブなものだった。

私は、職場やその場の人間に対して「ノー」をつきつけ、負の感情だけを持って行動していたと言える。

わたしのそうした「あなた方が嫌いです」というメッセージを、職場の人々は私の髪色からきちんと受け取ったのだと思う。

私が本当に職場を変えたいと思っていたのならば、「ノー」を出発点にするのではなく、「愛」を出発点にしなければならなかったのだ。

「私はこの職場が好きだ。職場の全てを心から受け止めます」と。
まずは相手を受容して、相手のことを好きにならなければ、相手だって、自分のことを「いいね」と思って味方になってはくれない。

その地ならしすらできていない新人が、いきなり「ノー」を振りかざして来たら、そんなのただの「ブタ野郎」である。

自分は会社の空気を受容することを拒否しておきながら、相手には自分を受容してほしいなんて、傲慢もはなはだしい。

自分が組織を変えていくんだ、悪しき習慣は残らず撤廃を!と意気込んでいるときには、ともすれば「憤り」や「反発心」が動機の中心に据えられがちである。

しかし、そんなときこそ「愛」と「受容」を、まずはその組織の一員である自分が自ら体現する。
あるべき理想の姿を自分で体現することで、ソフトながらじわじわと、まわりに押し広げていく。そうすることでしか、周りに変わることを期待できない。

結局、「何かを求める場合は、まずは自分が与えるべし」ということなのだ。

このことに気がつかずに、自分は棚に上げて周りにだけ変わることを期待して憤っていた自分の傲慢さと恥ずかしさを、今でも戒めにしている。


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