藤浪晋太郎(阪神)に投げかけられる言葉の貧しさについて(2018年4月記)
このところ阪神が予想外に強いので、こういう時代のことも残しておいていいのではないかと思い、再掲します。某連載の最終回原稿。
■藤浪晋太郎に対する金本監督の言葉
4月6日、京セラドーム大阪で行われた阪神=中日戦は、藤浪晋太郎にとって、まさに受難の試合となった。四球に押し出し、暴投、一塁への悪送球という乱調ぶりで5回に降板。
ここ最近の藤浪晋太郎は、とにかく制球が定まらない。4月21日の段階で、与四球16は、マリーンズの涌井秀章と並んで、両リーグトップである。
しかし、藤浪晋太郎のピッチングについて、ここでは論じない。論じたいのは、そんな藤浪に投げかけられている言葉である。
藤浪晋太郎、金本監督から、さんざんな言われ方である。でもまぁ、この程度の言われ方は、他の監督でもあり得る範囲内と思うのだが、個人的には「全員バントされたら全部ヒットですよね、下手したら」という発言については、さすがに言い過ぎではないかという感覚を持つのだ。
記事にもあるように、これは、藤浪晋太郎が、送りバントされた打球を一塁に悪送球したことに対する発言である。しかし教育的な配慮が全く感じられない。「あてつけ」「あてこすり」とでも言うべき、寒々しい言葉である。
しかし、金本知憲の発言の是非についても、ここでは論じない。論じたいのは、日本の野球界における言葉の貧困という、もっと大きく構造的な問題についてである。
高校野球における「体罰」の問題が後を絶たない(余談だが「体罰」という言葉は良くない。「罰」という言葉が入っている時点で、すでに「体罰」を受ける側=悪というニュアンスが発生している。「暴力」「暴行」と言い換えるべきだ)。
監督であれ、先輩であれ、手を出してしまうのは、「相手が言葉で言っても分からなかったから」だろう。でもそれは、相手が分かってもらえる言葉を知らない・使えないという、監督・先輩の側の言葉(日本語力)の貧困に、本質的問題があるのではないか。
どうして日本の野球界は、言葉が貧困なのだろうか。
■「文系野球」の復興=ベースボール・ルネサンスへ
と、ここまで考えて、ふと気づくのである。そもそも、豊かな言葉で野球が語られている場所は、どこにあるのだろうかと。
テレビの実況・解説、スポーツニュース、スポーツ新聞、野球雑誌、野球本、ブログ……そんな野球メディアのほとんどが、数字と技術論頼りで野球を語っている。
その象徴的な例は「野球評論家」である。日本において「野球評論家」は「野球解説者」と同義であり、プロ野球出身者のみから選抜される。そして、その多くは、まともに本を読んでいないし、だからこそ、しっかりとした文章を自分で書くことができない。マイクを向けられて、自分の言葉で語れる人も少ない。
野球の実況は、状況説明と過剰なテンションだけで、何かを伝えた気になっている。解説は、そんな実況に、「キレ」「ノビ」「タメ」といった、定義の曖昧な野球技術用語(?)に自分の経験を交えて、「解説」をした気になっている。
さらにスポーツ新聞や野球雑誌は、野球選手のインタビューに熱心で、それは悪いことではない気もするが、肝心の選手の側に言葉が無いのだから、読み応えのあるインタビューは必然的に少なくなる。
言いたいことは「日本の野球界には、もっと豊かな言葉が必要だ」ということだ。
もう少し具体的に言えば、野球経験者じゃなくてもいい。野球が好きで、野球を考えることができる言葉のプロフェッナルが、野球メディアにもっと入り込んで、みずみずしく豊かな言葉で、野球を書き・話すことが、求められているのではないかということである。
それは「野球評論」の復興である。もう少しキャッチーに言えば、日本の野球界を支配する「体育会系野球」に対抗する「文系野球」の復興=ベースボール・ルネサンスだ。
しかし「体育会系野球」と「文系野球」は敵ではない。むしろ仲間だ。そしていつか、この2つが融合し、「命令」や「あてつけ」「あてこすり」、更には「体罰」という名の暴力が横行する野球指導の現場が、豊かな日本語によって埋め尽くされる日が来ればいい。
おそらくフィジカルとメンタルにまたがっているだろう藤浪晋太郎の問題を、きっちりと掘り起こし、是正するような言葉は、必ずある。あると信じている――。
野球経験者でもない私が、「文系野球」として、野球選手を真正面から語るという、少しばかり奇異なこの連載を、私はそんな思いで書き続けてきました。突然ながらこの連載は、今回で一旦終了となりますが、野球界が豊かな言葉が増えていくことに、少しでも寄与できたのならば本望です。ありがとうございました。