【全文緊急公開】6/17発売の新刊『桑田佳祐論』(新潮新書)の「はじめに」
白状すれば、桑田佳祐の歌詞など、まともに読んじゃいなかった。
音楽家によって、その魅力における歌詞のウエイトは異なると思う。松任谷由実、佐野元春、浜田省吾、忌野清志郎あたりのファンは、その歌詞を比較的しっかりと認識して、愛でているような気がする。
逆に、桑田佳祐、山下達郎、矢沢永吉らのファンは、一概には言えないだろうが、先の松任谷由実らに比べて、歌詞単体で愛でるというよりは、歌詞をワン・オブ・ゼムとしたサウンド全体に魅せられた人が多いのではないか。
特にサザンオールスターズ/桑田佳祐においては、そうだろう。歌詞そのものがどうこうというより、日本語の歌詞を、どうビートに乗せるか、絡ませるかという方法論の開発が、桑田の最大の功績なのだから。極論すれば、歌詞だけ取り出して云々してもしょうがないだろうと、私はずっと思っていた。
そう、「思っていた」──この本の前編とも言える、2017年刊行『サザンオールスターズ1978-1985』(新潮新書)を書いたときですら、そう思っていた。
とはいえ、サザン/桑田佳祐の作品を、何度も聴いたり、たまにはカラオケで歌ったりすると、40歳を超えたあたりから、歌詞カードや、カラオケの画面に出てくる文字列が、心にブスッと刺さることが多くなってきたのだ。
「たまにゃMakinʼ love そうでなきゃ Hand job」──エロい!
「もう逢えないのだろう My friends」──切ない!
「スーパー・スターになれたのは 世渡り上手と金まかせ」──鋭い!
「20世紀で懲りたはずでしょう?」──深い!
そして一周回って、この文字列の凄みに気付く──「胸さわぎの腰つき」!
まず驚くのは、桑田佳祐による歌詞が表す世界の広さだ。ラブソング、エロソング、コミックソング、ナンセンスソング、そしてメッセージソングと、守備範囲がべらぼうに広い。野球のフェアゾーンをたった1人で守っている感じがする。
逆に言えば、桑田佳祐以外の音楽家の書く歌詞世界、特に、多くの若い音楽家のそれが、未だに狭っ苦しいことに驚く。ラブソング、それも手垢にまみれた単語の順列組み合わせだけで作られた、狭い視野の歌詞。走らず・動かずに捕れる球しか捕らないベテラン一塁手みたいな。
次に驚くのは深さだ。言い換えれば、広い広い歌詞世界を下支えする根本思想。私はそれを、「ロック音楽は、何を歌ってもいいんだ」という、長い音楽家人生で、桑田佳祐が決して手放すことのなかったドグマだと捉える。
さらに言えば、日本国憲法の根幹の1つである「表現の自由」、ひいては「戦後民主主義」を、もっとも謳歌し、満喫した日本人としての深みが、桑田佳祐の歌詞にはある。
「『たまにゃMakinʼ love そうでなきゃHand job』みたいなふざけた歌詞が、戦後民主主義かよ?」
「違(ちげ)えよ、『たまにゃMakinʼ love そうでなきゃHand job』みたいな自由な歌詞こそが、戦後民主主義なんだよ!」
サザンが国民的存在=「メガ・サザン」となって、低く見積もられがちとなった初期の巨大な功績を追ったのが『サザンオールスターズ1978-1985』であれば、同様に「メガ・サザン」となるに連れて、いよいよ見えにくくなってきた桑田佳祐の歌詞の深みを掘り起こす目的で書かれたのが、本書である。
この「はじめに」のタイトルは、サザン/桑田佳祐の歌詞をまとめた書籍シリーズ=『ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』(新潮社)へのオマージュだ。自虐的な原タイトルに対して、野暮なことこの上ないが、決して「ただの歌詞」じゃないのだ。
なお、これを書いている時点では(22年5月)、本書で取り上げた全曲がストリーミング・サービスで聴ける。また歌詞の掲載は見合わせたが、よくしたもので、ほとんどがサザンの公式サイトに、丁寧なクレジットとともに掲載されている。参考にされたい。
※来たる6月28日(火)、南青山BAROOMにて「新刊『桑田佳祐論』出版記念イベント~戦後民主主義を謳歌した言葉」を開催します。会場:2,000円(ワンドリンク、延長戦付)、配信:1,000円。MC:スージー鈴木、チカチカ・バンビーナ。ゲスト:細田昌志さん(ノンフィクション作家)。ふるってご参加下さい。くわしくはこちらを。