京王線ジョーカーに思うこと

事件の内容についてはググれば腐るほど出てくるので、ここでは書かない。

私の経験と照らし合わせて、この事件の事を見て感じた事、考えた事を中心に書いていきたい。

多分、大学生の時、人生一番調子乗ってた時期?の私であれば『意味わからん、理解できない』の一言で切り捨てていたと思う。

じゃあ今は彼(京王線ジョーカーの事。以降ずっと「彼」表記)の気持ちが分かるのか。

いや、それはやはり分からん。
彼の思考、生い立ち、抱えていた闇、、テレビやネットから得た情報で、とても分かるとは言えない。

ただ、彼のやった事は、自分に全く1mmもリンクしないことだとは思えない。
今は彼のやったことを、一言で切り捨てれない。

過去、私は無差別に人を傷つけたい、という気持ちには恐らく一度もなった事がない。
だが、『もうどうにでもなれ』と全てを投げ出したい、もう疲れた、死んだ方がマシなんじゃないか、そんな気持ちになった時期はあった。
それは、社会人以降2回あった。

彼は、もうどうにでもなれ→無差別に人を傷つけたい、と闇が加速してしまったのではないか。
そういった意味では、第一フェーズ?までは私と彼は同じだったのかもしれない、と思う。

ただ、私はその辛い時期からなんとか這い上がれた。
なので、狂気の第二フェーズ『無差別に人を傷つけたい』には至らなかった。
のかもしれない。
皆が皆闇が続くと同じ第二フェーズになるとは思えないが、決してなくはない気がする。

さて、辛い時期から這い上がれたのには色んな要素がある。
ある程度自分で活動した。
周りの人が良かった。
タイミングが良かった。

正直、当時の自分は相当頑張ったと思う。
けど、報われたのは結局のところ、運が良かったからかもしれない。
自分から動かないと棚ボタはない。
だけど、頑張って動いても棚ボタが発生しない時もある。
頑張っても頑張っても、棚ボタがいっこうに発生せず、疲れ果て、最終的に諦めてしまう。
そして闇を加速させる。
そうなってしまった可能性も、今思えばゼロではなかったと思う。

なお、彼がどこまで自分の苦境に抗ったかはわからない。

抗う力、反骨精神、チャレンジ精神。
これらは先天的なものもあり、後天的なものもあり。
ただ、ある程度運要素、多少なりのガチャはありうる。

『頑張らなきゃダメよ』と、見知らぬ他人に偉そうに言える権利を持つ人は、世の中でもごく一部だと思う。
なので、例外なく私もそんな事を彼に言える権利はない。
※ちなみに、素性を知ってる仲良い友達とかには私は結構言うことある。
それはある程度その人のベースを知っているからだ。
その上で『もっと君やれるやろ』的な事言うモードになることは往々にある。
めんどくてごめん、マイフレンズ。

親に愛を受けてこなかった、虐待された、兄弟とずっと比較され続けてきた、めちゃくちゃブス、身体的障害がある、死ぬほど要領悪い、実家ひくほど貧乏、、

最低これくらいのハンディがあって、それでも抗ってきましたよって人でないと、見知らぬ他人にあれこれ言う権利はない。
でないと、どうしても高見からの説教に見せかけた自慢と化す。

例えるなら、女子の『男は見た目は関係ないよ』とは、禿げ散らかした妙に中坊臭のするダサい格好をしたオジサンと付き合って、初めて説得力が産まれる言葉だ。
小洒落たトレンチコートを着こなせるそこそこキレイ目の彼氏を横に言うのは、いやいやwって話なのだ。

なんかよく分からん例えで、この件は区切って次の話。

一つ私が悲しいのは、映画『ジョーカー』を地上波放送禁止にしたこと。
そもそも彼は『ダークナイト』のヒースレジャージョーカーに憧れたらしい。
たしかにコスプレはまんまそっちだった。
なので映画『ジョーカー』のホアキンフェニックスジョーカーは無実?である。

まぁ起きたこととしてはホアキンフェニックスジョーカーまんまだし、やむを得ないのは一定分かる。
ただ、表面的にキレイに、体裁だけ整えようとしているのがなんかムカつく。
見ようと思えば子供でもネットで簡単に見られるし、そもそも、彼のような状態になってしまったら、何を発散の捌け口にするかわからない。
根本対策、闇の元栓をどうにかしようとしないと意味が薄い。

かつ、映画『ジョーカー』のような話は、私のような悪として雑魚レベルの人間にとっていい発散になると思う。
フィクションで自分の闇を自己投影して、スッキリする層も一定いる。
それもまたエンタメの醍醐味の一つなのではないのか。
(映画『バトルロワイヤル』とか最高。続編はクソだけど。。)

なのでそれを取り上げらたような感じして、なんか嫌だなぁと言う気持ちですわ。
まぁ、全然ネットで見ますが。

本記事ではこれくらいにしときます。
以上、おわり。

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