『ちはやふる』46巻感想

『ちはやふる』46巻読了。
私は大学1年生から4年間、競技かるたをやってきたC級プレイヤーなので、いくらか競技者としての観点からも感想を述べていきたい。また、卒論では『ちはやふる』を題材に24枚もの枚数を書いたので、研究者としての観点からの感想も多くなると思う。
*ここからはネタバレなので、まだ読んでいない方はUターンしてください。



普通に一読者として読んだ感想

第二三〇首

千早の強者感

まず、ここまでちはやふるを読んできた者として見ると、

「え?負けた? クイーンが格下の同級生に?」

と言われるのは大いに不服である。もう千早は、ただのA級挑戦者とは思えないほどの強さと気迫を身につけている。
それはもはや人ではない、神なのではないか、と思えるほど。
この「神なのではないか」と読者に思わせる描き方は、末次先生によって意図的になされているなと思う。
筆者が『ちはやふる』と題した理由を考えることがある。「ちはやふる」は「神」にかかる枕詞だ。その点を考えてみると、最初は1枚しか取れなかった小学生の女の子が神がかった強さを見せるようになるまでの成長物語なのかもしれない。

なんにせよ、このモブたちの台詞は腹立たしい。(わざと腹立たしく描かれているのだろうが)この漫画の当事者以外の人間たちは、いつだって言葉に無頓着だ。

詩暢の人間的な弱さ

「なんの役にも立たんのやから八つ当たりぐらいしてもええかと思ってもうた」

普通の女の子がこんなことを親に言っていたら、めちゃくちゃ怒られそうなものだが、この台詞を詩暢ちゃんが言うと、まだまだ子どもだなあと思う。というより、お母さんの前では子どもになれている、という印象だろうか。

詩暢ちゃんは思っていることをそのまま口に出す子ではない。京女の性格からか、いけずばっかり言う性格で、それとは裏腹に人間的な弱さを見せる場面もある。一方で、千早はいつでも明るくまっすぐで素直だが、思ったことをそのまま口に出してしまう性格だった。(この千早の性格もあとで言及する。)

また、千早がかるただけではなく、勉強をして人間的な深みをあわせ持つようになったのに対して、詩暢ちゃんはかるた一筋。かるたプレイヤーとしては圧倒的な強さを持つが、人間的にはどこか脆い。
この千早と詩暢ちゃんの対比も意識して描かれていると感じる。

新のパッと顔をそむける仕草

千早は勝ち、新は負けたところで、新がパッと顔をそむける場面がある。

これと似たような場面が前にも出ているのだが、その時は千早が顔をそむけていた。
当時は「顔をそむける」という仕草の意味するものがわからなかったのだが、「負けた自分と勝った友達」という状況で、心理的に負い目を感じて無意識にやってしまう行動だったのだなと納得している。

第二三一首

頂上が見えた者にしかわからない気持ち

(今度は私が一人であの荒野に立つっていうこと――――)

私自身は、勉強でもなんでも、何かの頂上に立ったことはないのだが、きっとそこから見える景色は孤独なのだろうなという想像はつく。追う側から追われる側に回るのは苦しいもので、たった一人で何を頑張ればいいのかわからなくなるのだろう。

千早は、その荒野に立つ恐さを感じて、緊張を解けないでいる。
だが、千早の母が上手く緊張を解いてくれる。

応援する側もなかなか声のかけ方が難しいのだが、千早の母はさすがに上手だ。

名人の兼子さんに対する冷たい態度

点字かるたを勧められて始めようかという兼子さんに、名人は「無理やろう」と結構ひどいことを言う(笑)

名人の気持ちは、回想で何となくそのニュアンスだけ描かれることはあるものの、何を思っているのか(いわゆるモノローグ)で描かれることは少ない。そのため、読者にとっては何を考えているのかわかりづらいキャラクターという印象だ。

ここの場面でも、名人は何を考えているのかわからない。ただ、単なる冷たさから言っている台詞ではないのだろうなという想像はつく。

あれ? 千早ってこんなに大人っぽいこと言う子だっけ?

「あ 遅いよ新 大丈夫? なんてね 大丈夫?って 大丈夫って言うしかないから苦手だよ」

これは、千早が迷走している新に対してかけた気づかいの言葉。

「あ―――――!? 新 襷使ってくれてないじゃん え――――!? いらなかったら返してよ―― 宮内先生の襷―――」
(嘘だよ 好きにしていいよ 新 好きにしてる?)

これも千早なりの気づかいの言葉。

私はこれらの台詞を目にした時にかなり驚いた。
前にも述べたが、千早は思っていることと違うことを言う子ではなかった。
これが太一ならまだそういうこともあったのだが、千早はひたすらまっすぐなキャラクターなので、意図的にそういう描かれ方はされてこなかったのだろう。

だが、千早にとっての強いかるたは「瑞沢のキャプテン」としてのかるたなので、場にいる仲間を気づかうような、視野を広く持って戦うやり方が千早にとっても向いているのだろう。

しかしやはりこの場面は千早の人間的な成熟を感じるシーンだ。

競技者として読んだ感想

第二三〇首

「自分のかるた」はそんなに簡単に定義づけられるものではない

回想「おとろしゅうておとろしゅうて 自分じゃいられんのでないか?」
新「大丈夫」
村尾さん?(わかってたのに 周防名人の本当の強さに触れたら かるたを続けたくなくなるくらいのショックがある わかってたのに みんなして新は特別やと)

これ、難しい。「自分のかるたって何だろう?」って、そんなに簡単に答えの出る問題じゃない。

わからないから、おじいさんのかるたを借りてきた。でも、そのまま勝ち進んで、みんなから「おじいさんのかるた見てるみたい」ともてはやされて、ここまできてしまった。

どこかで方向転換できればよかったのだけど……。ここに新の弱点があった。

まあ、なんにせよ、難しい。なんだろうね。「私は攻めがるた」「守りがるた」と言うことはできるのだけど、自分のかるたってそれだけじゃないよね、という。
人に「これじゃない?」と言ってもらって形になることもあれば、自分でストーリーを見つけて「これ」と思うこともある。

強い人ほど無駄にもめない

「めぐりあいて」が読まれた時、僅差で詩暢ちゃんが取る場面がある。際どかったから部員たちは「主張すればいいのに」と言うのだけど、千早はもめない。

強い人ほどもめないよね、と思う。理由は見えてるから。
ほかにも、競技かるたは勝ち負け以前に潔さも美しさとして重んじられることがあるので、そういう面も千早には表れているのかな。
まあ、強い人ほどもめない、というのには例外もある。個人戦の大会では負けたら一度きり。一枚一枚が自分の勝敗に関わる、と思えば、必死にがっつくのも無理ないかもしれない。

昔、高校選手権のC級の個人戦で役員として審判を務めたことがあるが、まあもめるもめる。お互いの主張を聞いたとてわからないこともあるのだから大変だ。正直もうやりたくない(笑)

一瞬何が起きたかわからない取りもあるよね

(みんなそう言うけど飛んできたんだよ 流星のように)

詩暢ちゃんの取りを、千早は「流星」と表現しているが、競技者としてはわかるところもある。

特にA級選手と対戦すると、よくわからないうちに取られてることが結構ある。そしていつの間にか試合が終わっている。

選手の取り方はさまざまで、かまいたちみたいに鋭い取りもあれば、新みたいに「た」の一文字で自陣にある「たき」「たか」「たご」三枚を渡り手で取られたこともある。

普通ならそこで折れるけど、折れないのが千早の強いところ。

速く取ったらいいわけでもないのが、かるたの奥深いところ

(かるたは採点競技じゃない 絶対的速さをタイムで出して比べる競技でもない 相手より少しだけ早く札に到達すればいい)

これは詩暢ちゃんの速い取りを見た原田先生のモノローグ。

かるたを知らない人には、ゆっくり拾う取りはウケが悪いんだけど、拾うのも大事なんだよね。速く取るのも大事だけど。

つまり、トータルで多く取って勝てればいい、という気持ちでいることが大事。

前巻を踏まえての考察

第二三二首

「ちは」がクイーン戦で出るのはもしかして……?

(またない…… 「ちは」が……)

「ちは」が場にないのを見た千早のモノローグ。

だがしかし、一巻にさかのぼってみると、冒頭の千早と詩暢ちゃんのクイーン戦で「ちはやぶる―――――」と読まれていたはずだ。つまり、末次先生のミスでなければ(あれだけ緻密に考えている先生に限ってそんなはずはない)「ちは」が出るのは確定しているはずなのだ。

しかし、4戦目にしてまだ「ちは」は出ない。(え、ですよね?)
ということは、この4戦目は千早が勝って、5戦目にもつれこむ、ということか……? まあ、ほぼ予測はできていたところだが、やはりわかるとほっとする。

太一なりの優しさ

(俺は新のじいちゃんを知らないから その畳の上で新がどうありたいかなんてわかんねーけどさ お前の本性は知ってるよ らしくなく委縮してんなよ)

かるたに迷いが出てきている新のために、応援に駆け付ける太一のモノローグ。まあなんとも太一らしいモノローグ。

太一は人間的な醜さ、弱さを隠さない。いや表面的には隠してるんだけど、読者には隠さない。『ちはやふる』のなかで最も人間味がある登場人物といってもいい。

そしてこう続く。

(ガキの頃からの友達も18枚差で踏みつけて いちばん強くあるために力をふるう単なる鬼なんだよ お前は優しい人間じゃない 思い出せよ 相手が永世名人であろうとも 目にハンデがあろうとも 5歳相手でも手加減しない男だって)

なんだろうね。太一と新の間にあるのは、単なる友情じゃないんだよね。それを踏まえてこのモノローグを見ると、積年のライバルであり、友達であり、恋敵でもある太一にしかできない励まし方があるのかなあと思う。
少なくとも千早にはできない。千早はクイーン戦の傍ら、ずっと新に気を配っているけど、千早のまっすぐな励ましでは届かない。

そこで太一が登場する。太一の役割とは、単なる千早に恋してるイケメン男子高校生ではない。
「5歳相手でも手加減しない男」とあるように、新のプレースタイルを新自身と読者に思い出させる役割も担っている。

「お前は優しい人間じゃない」とは、なんともひどい言いようだが、確かに試合のさなかでは優しさを手放すべき場面も存在する。だから、この場面は競技者にとってはものすごく共感できるシーンだと思う。

それぞれのキャラクターについて思うこと

須藤さん

性格の悪い須藤さん。でも志は高い須藤さん。
徐々に視界が狭くなっていき、やがては目が見えなくなるであろう名人のためにかるたを続けてもらおうと世話を焼く。

そんな須藤さんに

「須藤くんは…名人になりたいんだろう? それでかるた協会会長にもなりたいんだろう? いいね なれるよ 君ならなれる」

と言う名人。これは私も名人に同感で、本当は優しいところのある須藤さんならなれるだろうと思う。

名人

名人も本当は優しいところがあるんだな、とは思ったが、このシーンを見ると同時に、千早に「クイーンにはなれないよ」と言い切ったのを思い出す。

目が見えなくなっていく名人には、何もかも持っているように見える千早がクイーン位まで手にしたいと言っていることが許せなかったのかな。

でも、荒野を目指す覚悟が千早に見えて「荒野で待ってる」と声をかけた。

つかみきれない人ですね。

人生と照らし合わせて

詩暢ちゃんのお母さんと詩暢ちゃん

「聴こうとせな聴こえんのです」

これは、詩暢ちゃんのおうちのお手伝いさんが詩暢ちゃんに言った言葉。コミュニケーションが足りないことが、この親子の溝のもととなっている。だから、詩暢ちゃんのお母さんも「言うてやらへんとわからへんですよ」と別の人に言われる。

これは、どんな関係につけてもそうで、どちらか一方が働きかけただけではうまくいかない。「言おうとし、聴こうとする」ことの大切さをこのシーンからは教えてもらった。

まとめ

さて、千早と詩暢ちゃん、新と名人、それぞれの意地がぶつかり合った46巻だった。この巻は新の険しい表情で終わったが、勝負はどうなるのか。私の予想どおりクイーン戦は5戦目まで続くのか。

8月に発売される47巻が楽しみですね。

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