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【雑記】母についてのアレコレ

私は、家族や夫婦に関して、懐疑心がある。
このモヤモヤの原因は何だろうというきっかけから、母に関するあれこれを書き並べてみました。

もしよければ、読んでみてください。



1 母とは


 私の母は、死ぬ割とギリギリまで会社員として働いていた。

 私が幼稚園生の時まで勤めていたのは、広告代理店のような会社だった。当時の仕事内容を詳細に聞いたことはなかったが、高校生くらいの時に話した時には、この広告代理店での仕事が一番楽しかったと、母は言っていた。
 私が小学生くらいの時に、それが潰れると、派遣会社に登録して、なんか国関係の自治体?とか、保険会社?とかに派遣されて、事務?会計?の仕事をしていた。

 親がどんな仕事をしているか、意外と知らないものだ。母は、会社の守秘義務を果たしていたからかもしれない。

 母は、仕事を続けることを大事にしていたが、仕事に対する情熱があるような感じはしなかった。仕事のこだわりよりも、愚痴を話す母を見ることの方が多かった。そして、仕事で成果や達成感より何よりも、今の月収で趣味である舞台を何本観れるかに頭を使っているようだったし、そのうち何本の感想を書き、ブログに上げられたかに頭を使っていた。
 それに、派遣会社に登録したくらいから、母が父へのプレゼントをケチるようになったので、母だけが何かしらカツカツな感じだけ察していた。
 周りには、両親どちらかの収入で、豊かに生活している人が多かった。だから、なんでそんなに母は働きたいのか、小さい頃の私はよくわからなかった。結婚するって、お互いに生活費を分け合うことではないのだろうか。各々の自己実現は、家庭の生活費に含まれているようではないらしい。
 ただ、そんな母も、仕事や生活について迷っていたのかもしれない。思えば、小学生低学年ごろの私に、母はよく「母ね、ずっと家にいる人になろうかなって。そうしたら、ずっと一緒だよ。どう?」と尋ねていた。ただ、私は、「母は、あまり家にいるの好きじゃなさそうだし、やめなよ」と毎回返していた。

 母は、家にいる時、あまり機嫌がよくなさそうだった。

 「会社でやなことがあった!」と母が自ら言う日もあれば、鍵っ子として留守番している私が部屋を汚くしたとかいう理由で、「○○さん(私のこと。我が家では、”さん”付で子供を呼びます)のせいで機嫌悪いよ!だから、今日の晩御飯はまずいかもね!!」と言う日もあった。
 特に、小学校低学年の時、平日の夜ご飯は団欒タイムなんかじゃ全然なかった。帰宅し、夜ご飯後の時間を自分の好きなことをする時間に当てたい母は、早弁する高校球児のように、夜ご飯をかっこんで、すぐにダイニングから自分の書斎スペースに移動していた。

 今の私なら、母の気持ちを理解できるけど、小学生の私は、なぜ母がそんなことをするのかわからなかった。私のことが嫌いなのかなと、思っていた。あと、私は、毎日の夜ご飯の時間が億劫だった。

 母は、お母さんと呼ばれることを嫌がっていた。

 「自分の子供には、はじめはー、Mさん(母の名前のさん付け)と呼ばせようと思っていたのー」
と祖母の家での夜ご飯後、ややほろ酔い状態で時々話していた母。
 これを母から聞いた当時は、なんだそれと思った。

 31歳の今では、その訳も少しは想像できる。

 私は、就職をきっかけに、24歳位から一人暮らしを開始した。徒歩通勤していた会社と一人暮らしのアパートの間にあるクラフトビール屋で仲良くなったご近所の一家(父、母、子)と話している時に、一家の母であるSさんから「母になって、個人であることを忘れる時間が増えた」と言われたことがある。確かに、人生を謳歌する母を、私はよく「他のお母さんと違う!」と怒っていた。寂しさからくる怒りなのに、他のお母さんと違うことで括るのは、子供のエゴだ。
 母は、感覚的ながら、このことに気づいていたのではなかろうか。「母」は、当人の本質ではない。ただの属性だ。

 母は、観劇が好きだった。

 母の遺品を整理した時、チケットやチラシを保存している、ブリタニカくらい太くなったファイルブック群を父と見返したことがあった。そこには、映画のチケットから、歌舞伎、ストレートプレイ、イケてるメンズがたくさん出ている系舞台、宝塚、帝劇ミュージカル、落語などなど、この日本の全ての上演作を網羅しているのではないかと思えるほど、様々なチケット、チラシが保存されていた。
 日付を見て、それらが大体2日おきで、月に10枚を余裕で超えるチラシがファイリングされていることに気づいた時、父と2人でたまげた。週の半分以上は出かけていたのか。

 母は、あまり食に興味がなさそうだった。

 幼少期、平日のご飯担当は母だったので、彼女の手料理をよく食べた。ただ、白すぎるし味が薄すぎる6つの具材入り味噌汁とか、五大栄養素全混ぜ丼とか、最低限の調味料で、最大限の栄養素を意識した母の料理は、子供ながらに全くテンションが上がらなかった。

 私は、そんな母の料理を避けていた。

 幸い、母は平日も何かしらの趣味のため、私が小学生以降、よく家を開けていたので、避けることは難しくなかった。私は高校生以降、母の手料理を食べた記憶があまりない。そんな私の態度に母は、「平日のお弁当も、○○さん(私)が自分で作ってくれて助かる〜」と嬉しそうに言ったり、「はいはい、どうせ私の料理は美味しくないですよ〜」と低い声で言ったりした。

 私は、自分の好きなことに正直な母が好きだ。

 観劇の感想ブログを書いて、友達を増やしたりする社交性があるところとか、自分でもダンスや歌を習い始める積極性とか。
 一緒に宝塚を観て、帰宅し、一緒にお風呂に入れば、2人でその日観た演目を風呂場で歌ったりした。マンション住まいだったので、近所迷惑な一家だと思われていたかもしれない。

2 母は癌になった


 そんな母の癌は、私が大学院生の時、急に見つかった。

 「なーんかピン!ときたのよね(*^◯^*)」
 となぜか妙にかわいこぶって、ダサい顔文字とそっくりの表情で言った母。母の癌は、たまたま行った婦人科検査でソレが見つかった。
 と父と母からは聞いている。ただ、母の友人の証言を合算すると、検査に向かうことを決めた段階では、すでにいくつか自覚症状があったらしい。なんか、出血がーとか、痛みとか違和感がーとかの言葉が、友人間のやりとりではあったようだ。私は聞いたことなかったんだけどな。
 そうだ。母は、我慢しがちな頑張り屋さん性質があると、自分で言っていた。そんなところ、我慢する必要ないんだよ。
 

 ある日の朝、夫婦の出勤前。

 当時、他人から見ても、かなり不仲だった2人だが、父に
 「なんかね。この間、検査したんだけど、お医者さんにね、ご主人もご一緒にって、言われたの。一緒に検査来てくれない?」と母がモジモジ伝えた。

 父は、ここまで聞いても、余裕で不機嫌そうだった。

 私も、何もそこまで深刻な想像はしなかった。

 その結果、ドラマティックになりそうな、その日の帰宅後の夫婦の様子を、今の私は全く覚えていない。ただ、私と父がノロウィルスで弱った時期も、同じ設備を共有しているはずなのにピンピンしているほど健康な母が、病に関するトピックを出したので、妙に印象深かった。

 母の癌は、見つかった時のステージの数が割と大きく、すでに末期と言われる状態だった。

 当初は、患部を摘出しましょう、通院での放射線治療でカバーしましょうと、担当医から聞いていたが、どんどん状況は変わった。

 通院での治療はすぐに困難だとわかり、ドラマでしか聞いたことのない抗がん剤治療が入院状態で始まって、あっという間に終わった。発見から程なく、母は、様々な治療を経て、自宅での緩和ケアへ移行した。

 自宅での緩和ケアに移行することが決まるということは、家で誰かが常に付き添う必要があるということだ。その段階になって初めて、父と、母に関して話をした。

 「本人の希望もあって、最後は、自宅での緩和ケアをすることにした。基本、俺が付き添う。会社は、一旦、介護休暇をとる。」と父は事務的に話しはじめた。

 「○○さん(私)には申し訳ないけど、週1か2かな。そのくらいは、俺も会社行くから。その時は、そっちには研究室?大学、休んでもらって、手伝ってもらうかも。」
父は下がり眉で話していた。

 「大丈夫だよ。ていうか収入源がなくなるなら、私が休学した方がいいんじゃない?」と言う私。と言うのも、大学院の研究の中の作業が辛く、一時休止したかった。来週の出張に向けた実験のプログラムを作るのも、測定したデータを分析するのも、次回の勉強会向け発表資料を作るのも全部苦痛だった。

 私の言葉を聞いて、額にシワを増やした父は、
「いやいや、大丈夫だから。一時休止することのリスクは、○○さん(私)が、自分で考えているよりも大きいよ」
と口元はにこやかながら、顔の上半身と下半身の感情がチグハグな状態で返した。

 私は、何も納得してないが「ワカッタ。ダイガク、イク。」とカタコトで言った。

 やれやれだぜとでも言いたげな父が続ける。

 「M(母)も、何か、運転免許証の更新があるとかなんとか言ってて、自分の状況を理解しているのかな」 

 私は、驚いた。

 母が、緩和ケア突入段階で、運転免許を更新しようとしていることにではない。

 父が、母を名前で呼ぶんだということを初めて知ったからだ。

 この時、初めて、父が私と同じヒトに見えた。
 私が生まれた時から、父は「父」だったし、母は「母」だった。ただ、2人は名前で呼び合う関係性を経て、結婚し、めでたいことやら何やらかんやらを経て、今不仲なのだ。見たこともない想像の風景で構成されたスライドショーが脳内を流れる。

 子供にとって、親の概念とは歪だ。自分と全く違う階層の生き物だと思って、うっかり親を軽んじたり、うっかり親に従ってしまう。友人とは普通にできているコミュニケーションが、親と子の間には抜け落ちていたかもしれない。

 そして、私の母の概念は歪んだまま、母の最後は少なくとも1年以内にあることを、父との会話から察した。

3 母の在宅


 母が家にいる時間は、急に増えた。

 父が家にいる時間も、増えた。

 私が家にいる時間も、少し増えた。
 当時、大学院1年生。父の圧もあり、授業や研究は通常運転だったが、今まで避けていた自宅での食事が復活した。ただし、この時の夜ご飯担当は、父か私である。

 自炊開始1日目、父が胸を張りつつ高らかに、「俺は、焼きそば、チャーハン、カレーは作れる」と宣言したので、平日は、宣言通り3品を鬼ローテーションした。
 
 毎日の自炊は本当に面倒臭い。1人のために作る食事に比べ、人に向けて作る食事はこんなに言葉にできない精神的負荷があるのか。父と私はいつも猫背気味で、食事を作っていた。

 そんな私たちの姿を見て、母はニヤニヤとキッチンを覗きながら「私が作ろうか」とよく言った。


 しかし、私も父も、母の手料理を食べたいとは全然思わなかった。

 だから、それならばと思い直し、私たちは再び自ら手を動かし始めた。

 母はその度、口を尖らせつつ、「はいはい」「いいもんいいもん〜」にリズミカルな語尾で放ち、キッチンに向かってきた時よりも大きな音を立てて、点滴スタンドとともにリビングの中心に配置されたベッドに戻って行った。

 亡くなる2か月前頃、何がきっかけだっただろうか、その日、母が「家にいても、何もしてあげられない。生きている意味がない」と泣きはじめた。私は、母のベッドから少し距離の離れたダイニングテーブルから腰を上げられないまま、それを聞いて、泣いた。

 父は、「そういうことは考えなくていい。少しでも長く生きるにはどうするか。そう言うことを考えなよ」とベッドとテーブルのちょうど真ん中の位置に立ったまま、一言一言を丁寧に言った。

 それを聞いて、私は両手の拳を顔の横で上下に動かしながら、「今までだって、自分の好きを大事にしてたじゃーん」とリズミカルに言う。

 母は、口を尖らせて、笑っていた。

 多分、私は母に言うべきことを言い忘れてた。


 「母は面白いから、一緒に過ごすのはいつも楽しいよ。」

 「母」だとしたら、文句言いたいことあるよ。え。そりゃあるよ。あるでしょ。

 でも、「母」だけでいたいわけじゃないんだよね、母はさ、きっとね。
 私は、「個人」「ヒト」として、母が好きだよ。
 うちの家族、みんなそうだよね。家族の運用よりも、一個人の幸せを追求していた感じするんだよな。それ、本当まじ最高だと思うんだよ。

 でもさ、その結果、私は、拗れているんだよね。個人の幸せを追求すると、家族の運用ってむずいなって思うわけ。だから、結婚とかをさ、彼氏に提示されると、本当バカの話聞いているみたいな気持ちになるわけ。感じ悪いよねー、私。

 おかしいよね。おかしいんだよ。だって、一人一人、一個人の幸せが成り立った上で、家族の生活があるべきじゃん。でも、違うんだよね。一個人の幸せって、うちら家族の場合は、運用がぐちゃぐちゃの状態で成り立ってた気がしない?もう本当、わかんないんだ。聞いてる、母?
 
 家族の運用って、一個人に対する愛情だけで足りないらしいよ。おかしいよね、本当。

4 母が死んだ


 母は、亡くなる年の誕生日に体調が急変した。
 
 急変じゃないか、その日の2週間前から、母の体調は妙だった。急に高熱がでたり、急に体の震えが起こっていた。その度、訪問医療の人を家に呼んだりしたが、何かが好転するわけではない。当たり前だ。それを織り込み済みの自宅での緩和ケアなのだから。

 母の最後の誕生日の数日前も、熱が出たとか、体の震えが出たとか、そう言う状態になった気がする。ただ、いつもと違うのは、唇の色だ。その色は、ちびまる子ちゃんの藤木くんのソレよりも、本当に、青紫色になっていた。
 
 その時、父はまず、訪問医療の看護師さんを呼んだ気がする。
 看護師さんはすぐに来た。どんな処置をしたのかは覚えていないが、
 「ね、もう救急車呼ぼう。お家でこれ以上は無理だよ。今週、何回私たち来た?旦那さんも、これ以上、面倒見れないと思う」
 と看護師さんが、母に伝えていた気がする。これに、母は頷いたのだろうか。

 母は、家で最後を過ごしたいと言っていた。
 ただ、救急車を呼ぶ選択をすると、家で最後を迎えることも叶わないことになる。
 私は、当初あまり深く考えていなかった。緩和ケアを自宅で行う患者は、家で過ごして、必要に応じて訪問医療で対応すれば、何も問題ない。完璧だ。そう思っていた。
 ただ、その選択は、大切な人、身近な人が家で苦しむ様子を見続けることと同じである。訪問医療で対応できることには限りがある。そして、迅速に処置を施すためには、入院でないとフォローできない。自宅での最後を迎えることにこんなにハードルがあるとは、私だけでなく、母も、父も思っていなかっただろう。

 そして、そのあと、救急車到着。訪問医療で対応してくれていた看護師さんの計らいなのか、たまたまなのか、当初通院していた病院に再入院した。
 

 その日は、母の不調!救急車!からの、病院!大勢に処置される母!と緊張感しかない時間が続いた。

 なので、点滴を打った母の状態が落ち着いて、雑談できるようになったのを見た時には、私はいつもよりも緩んでしまった。

 「この個室、⚪️万円らしいよ〜!高級誕プレになったね!!」と体を横に揺らし、ドヒャーと言うムーブをしつつ、私は言った。母も、私のドヒャーを真似してくれて、父と母、私で少し笑った。

 何言ってたんだろ、私。バカなんじゃないのかな、

 「個室なので、ご家族も泊まることもできますよ」と入院した病院の看護師さんに言われたが、私も父も疲れていた。なので、その日は「明日土曜日だし、また来るね」と母に言って、2人とも帰宅した。

 母は、それに、「大丈夫らよ〜」と、鎮痛薬が効いているのか、ふわふわした語尾で返した。


 母と言葉のやりとりができたのは、それが最後となる。

 
 次の日の日曜日。父と私が病室を開けた時の母の様子は大きく変わっていた。
 父と私が手をかけて、開けた病室の扉の先には、母と看護師さんの気配を感じた。
 「あーおはようございますー!今ちょうど、Mさん(母)の体、拭いてたところなんですよー!すっきりしたねー」
 私たちに看護師さんが、扉から顔をひょっこり出して、ハキハキと伝える。

 看護師さんがいつもの調子で、父と私は安心した。
 「ありがとうございます!そうです、かー」
 と言いながら、「かー」と言った時に私の視界に入った母は、目を開けて、横たわっていた。

 「来たよー」「おはよー」
と言う父と私の言葉に、「うー」とか「あー」と言う母。目を開けたり、閉じたりするものの、喜怒哀楽のどれでもない表情のまま、目も口も瞬間接着剤で固定されているような緊張感を保った状態で動きがない。

 

 そこから、約2週間くらいは、在宅の時にはなかった装備が、母にどんどん追加された。
 もう、それが、母にとって、苦痛なのか、快適なのか、誰もわからなかった。母からも、回答はなかった。

 パルスオキシメータで測定した血中酸素濃度は、日に日に落ちていた。90%なら、そこそこ大丈夫じゃん?と思っていた私だったが、そうではないらしい。

 誕生日から約二週間経った。
 その日の母について、「今夜かなと思います」と教えてくれたのは、いつも見てくれてた看護師さんだった。
 

 その日の夜は、私も父も2人で母のベッドの横にいた。

 母の指に付けられたオキシメータと、母の顔を交互に見る父と私。
 オキシメータの示す値の十の位の数か変わった瞬間、父が「十分頑張ったね」とか何とかを、母の手をさすりながら言った。

 眠ったようだった母が、突然息苦しそうにする。

 オキシメータ、母の顔、心電図を順番に見る父と私。

 数字がかわる度に、冷静に、メータ類の数字の解釈を教えてくれる父。
 父よ、冷静だな。

 その後、ドラマで見たような心肺停止時の音がする。

 ああ、そうか、死ぬのかと私は思った。

 「心臓が止まって、すぐはまだ声が聞こえるらしいから、何か最後に伝えたいことを伝えな」と、急に私に言う父。

 どこ情報だろうか、と突っ込みたくなる気持ちを抑えて、「ありがとう」とか「楽しかったー」とか何かを言う私。きっと、母が即時で悪霊になっていたら、取り憑かれてもおかしくないくらいの語彙の少なさだったかもしれない。
 
 その後も、2人で手や顔をさすり続けていた。
 「つめたっ」
 私が手をのけると、ベッドと体の間から、母の体内から出たであろう紫色の体液が染み出していた。

 仮面ライダーや怪物が死ぬ時みたいだと思ったけど、私から咄嗟に出た言葉は、
「なんだ。我慢してたんじゃん。辛かったんじゃん」
だった。
 ドラマのような風景で笑ってしまう自分を背後に感じながら、私は泣いていた。

 私の母は、その瞬間、本当に死んだ。 

5 30歳の野崎


 母が死んでから、7年経った。
 結婚なんて全然したいと思わなかった20代を経て、私は30歳になった。
 30歳の私は、どうしようもなく結婚がしたかった。というか、人と住みたかった。

 人と住むには結婚が手っ取り早い。そんな安易な解を出すほど、とにかく、1人でいることへの焦りがあった。
 動いた。ネット上で活発に動いた。
 オンライン結婚相談所と、マッチングアプリを駆使して、私はパートナーを見つけた。パートナーに見つけてもらった、という方が正しいかもしれない。

 「うまくいくときは、とんとん拍子。」
 仕事が楽しい友人や、信頼する仲間がいる友人から、この言葉をよく聞いた。ただ、私はこの一文が、本当に嫌いだ。結局は、うまくいくかは自分でコントロールできない、運次第だと言われている気がする。

 ただ、パートナーとのあれやこれやは、本当にとんとん拍子で進んだ。あっという間に同居や結婚の準備が決まっていった。

 人がいる生活は悪くない。
 大勢と居ても孤独な状態と、物理的に孤独な状態をどちらも経て、居心地のいい時間を見つけられたことを幸せに思う。

 ただ、どうしようもなく、今後が不安なのだ。
 
 母は幸せだっただろうか。
 最近、そればかり考えている。
 
 母と話して、聞いてみたい。

 家にいる時間、そんなに好きじゃなかったよね。
 家族といる時間、大事にしようとしてた?
 でも、家で死にたいと思ったのは何で?
 病院は、Wi-Fi飛んでないから?
 私、家の時間、あんまり好きじゃなかったよ。
 わかるでしょ?
 でも、いまは、私も、母の気持ちが少しは理解できるんだけどさあ。


 私の質問に、脳内の彼女は、口を尖らせて、笑っている。

 答えはない。

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