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ぶつかられおじさん
「わざとでしょ!謝ってください!」
最悪だ…月曜から、最悪な朝だった。
右目でしか見られない私の眼前には、今にも私の胸座に掴み掛かりそうな女性が、強烈な眼差しで私に睨みを利かせていた。その後ろでは、先ほど転倒した女性が蹲っている。すれ違う好奇の視線とわらわらと集まってくる人の群れ。転倒した女性に「大丈夫ですか?」と声を掛ける人もいた。眼前の女性は更に続ける。
「あなたみたいな人がいるから…、ホント!許せない!」
その声を皮切りに、パシャ、パシャと聴こえるシャッター音。好奇の視線はいつしか、蔑みと嘲笑の視線に移り変わり、私は恥ずかしさと情けなさで一歩も動けなくなっていた。
事の発端は私が本日初めてのコンタクトレンズを付けて出社しようとしたところにある。付け方が良くなかったのか、電車を降りる頃には左目がゴロゴロし、とうとうこのコンコースを歩く途中で左目が開けられなくなった、その途端、「…あつ、」という小さな悲鳴と共に、誰かがぶつかるのを感じた。次の瞬間、私のスーツの袖を強く掴み、私を糾弾する叫びがコンコースに響いた。そして今、その最中にある。
「これ、暴力ですよ、犯罪ですよ、警察に言いますよ!」
え、そ、それは困る、私のせいで転んだのは本当に申し訳ないが、少なくともわざとではない。痛む左目を抑えながら、私はやっとの思いで声を発した。
「す、すみません、でも、わざとでは、わざとでは、…決してありません、」
「嘘でしょ…、今更!往生際の悪い、」
…ダメだ、絶体絶命だ…と諦めかけたその時、
「違うんです、その方のせいでは、自分で転んだんです」
天の助けは、私が本当に胸座を掴まれる一歩手前で施された。
「すみません、私が慣れない高いヒールの靴を履いてきたばかりに、」
転んだ女性はそう言いながら、駆け寄ってくれた人の腕を借りて立ち上がったが、おそらく転倒した時に挫いたのであろう、左脚を引きずっていた。
騒ぎを嗅ぎ付けた駅員が車椅子を運んで来た。女性は車椅子に乗せられるとタクシー乗り場まで移動する。病院まで付き添うという私の申し出は、丁重にお断りされ、タクシーが過ぎ去る頃にはもう、私の周りには誰一人いなかった。
私を糾弾したあの女性も、いつのまにかその姿を消していた。
「もう、『ぶつかりおじさん』に間違われるなんて、何やってんすかぁ」
あれから急いだものの、朝一の会議には遅刻してしまった私を囲み、若い人たちが談笑する。万年主任の私は、彼らにとって気楽に話せる存在らしいのだが、時折、その無礼さにムカつくこともある。ただ今は、その無礼さもいつもの日常だと思えば安堵した。
自席に戻ると、私は隣の山田さんに小声で問いかけた。彼女はこのフロア一の勤続年数を誇る、しかも日々の雑用から重要顧客の攻略作戦まで熟すスーパーアシスタントだ。
「…山田さん、『ぶつかりおじさん』って、何?」
それとなく話を合わせていたが、実は知らなかったのだ『ぶつかりおじさん』。山田さんは私をチラっと見ると、何やらパソコンに打ち込み、画面を指さした。言われるがまま、私は画面を覗き込んだ。
#ぶつかりおじさん
その膨大な履歴と画像に愕然とした。
その中の一つ、明らかに意思を持って、故意に女性に激突した、その様子を撮影した動画が拡散されていた。ショックだった。平和ボケしていた自分を恥じた。妙な罪悪感が湧いた。
「…その、今にも胸座掴みそうだった子も…なんか、辛い思いでもしたのかね…」
寡黙な山田さんが珍しく、そう呟く。それを耳にした時、私の中で何かが繋がった気がした。睨みを利かせたあの強烈な眼差しもどこか、悲し気ではなかっただろうか。
その夜、自宅のパソコンを開き、筆を取った。「なんかあったら、あんたはここで呟きな」と山田さんが開設してくれた、私のブログだ。会社ではしがない私だが、ここには私の書いたものを読みたいと言ってくれる人がいた。その数、一万人であった。
私は今朝の出来事の経緯を綴りながら、私を糾弾した女性に思いを馳せた。ひょっとすると、彼女は何かを変えたかったのかもしれない。狂ったことが罷り通るこの異常な現実に一人立ち向かったのかもしれない。そう思った時、私の心にも火が付いた。私は正直なまま思いを綴った。
私だって、イラっとしたり、モヤっとしたりすることはあるさ!
つまらない私の日常なんて、理不尽なことのオンパレードだよ!
でも、私の心は決して暴力には屈しない!
そして、好奇の視線ですれ違う傍観者にもならない!
卑怯者たちよ!
ぶつかるなら、私にぶつかってこい!
明日の朝、あのコンコースでお前らを迎え撃つ!
その夜、私のブログは初めて炎上なるものを経験する。燃えれば燃えるほど、不思議と私は満足だった。