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穴山梅雪の事

(2023年6月10日 Twitter)

皆さんは、穴山梅雪(信君)の事どう思っていますか?
やっぱり悪く思っていますか??

儂が思うに、勝頼と穴山信君の仲はそれ程悪くなかったんじゃないかなと思っています。勝頼はとても信君を頼りにしていたし、信頼していたと思います。信君も勝頼を疎ましく思っていた訳ではなく、御屋形様として本気で立てて行こうとしてくれていたと思いますし、離反までには大変苦悩していたと思います。

実際信君は武田の為に大変よく働いてくれましたし、尽くしてくれました。
信玄公が亡くなる前、穴山は今川と武田の取次を任されていました。今川旧臣への調略も任されていました。徳川との同盟交渉(永禄12年)も任されていましたし、徳川と敵対してからは駿河・遠江方面の調略も任されていました。

信玄公死後、天正二年の高天神城攻めの時、勝頼に代わって攻撃の指揮を執ったり、高天神城主の小笠原氏助との帰属交渉もしています。大変能力が高く優秀な人でした(ちなみに「取次」というのは、隣国との交渉人の事です)

長篠合戦の時、撤退を進言したのは本当は信君だったんじゃないだろうか?と思っていて…(そういう史料もあるので(当代記他)その可能性もある)
あの頃東海方面の軍事を任され、調略をし取次もしたのは穴山信君でした。だから敵の事を一番良く知っっていたのは信君だったんじゃないだろうか?敵をよく知るからこそ、撤退を進言したんじゃないだろうか?と思いました

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ちなみに甲陽軍鑑では、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤らが撤退を進言した…とありますが、あいつらは武闘派だから、たぶん主戦論者だろう(甲陽軍鑑は死んだ人間を利用して、また適当な嘘を書いているのだろう)
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儂が思うに、信君は撤退を進言したが宿老も勝頼も全員一致で決戦を決めてしまった。そしてその辺から勝頼と信君の間に齟齬が生まれはじめたのかな?と思っています。それでもまだまだそれは些細な事で、合戦が始まれば信君も全力で戦い、勝頼を守って撤退したのでしょう(長篠合戦で穴山隊の一人が戦死しているので穴山衆も長篠で奮戦していました)

ではいつ頃から信君の気持ちが離れていったのでしょうか?
穴山が徳川に内通していたのは、天正九年頃と言われていますが、気持ちが離れて行ったのはもっと前の事でしょう。儂は天正七年の夏以降、北条との手切れが確実になってから…かな?と思っています

勝頼を支えていた二代家臣、武田信豊と穴山信君は勝頼の従兄弟です(信君は、勝頼姉の婿で義理兄でもあります)
勝頼は、穴山信君には駿河・遠江方面を、武田信豊には信濃・上野方面を任せていました。信頼の置けない人物にこんな大事な仕事を任せるはずはないので、勝頼は信君も信豊も同じように信頼していたのでしょう。

信君は信玄公時代から大変な活躍をして、大きく武田家に貢献していました。義信が生きていた頃はもっと、今川氏や六角氏、三好氏などとの取次もしていて華々しく活躍していた事でしょう。しかし、義信廃嫡の辺りから少しずつ信君の活躍の場は減り、発言権も減っていくのです。

御館の乱をきっかけにそれまで上杉領だった東上野が、景勝(上杉)に味方するのか、景虎(北条)に味方するのかの選択を迫られる事になりました(詳しくはこちら→ https://note.com/suwakatuyori/n/n854903e24f34

この時期一番成果を出していたのは、北信濃・上野方面郡司の武田信豊・跡部勝資コンビと真田昌幸でした。天正八年武田の領土は最大版図を示しましたが、それは主に信豊・跡部の活躍が大きかったのです

駿河・遠江方面は、長篠の敗戦と家康の策略で、調略が思うように進まなくなっていました
上手く行かない駿河遠江(対徳川)をなかば諦めるように勝頼の心は東上野に向かって行ってしまいます。それでも信君は良く守り、徳川の侵攻を食い止めていました。

穴山は徳川に内通したとはいえ、もちろん急に心変わりした訳ではなく、じりじり追い込まれて行ったのだと思います。天正七年夏以降、武田は北条とも敵対する事になります。少なくともこの時点で北条と敵対する事は悪手だった。勝頼は織田・徳川対策に集中するべきでした。その事を信君は諫言したのでしょう。しかし受け入れられなかった。その辺りから信君は勝頼に失望し、徳川に気持ちが移って行ってしまったのかもしれません…

信君は天正七年の年末までに出家しています。捨て身の進言も受け入れられず、この頃から武田に見切りを付け、嫡男に家督を譲り、自分は出家したのかな?などと思ったりもします…(出家すると出仕しなくてもよくなるので、勝頼と顔を合わせなくて済みます)。

甲陽軍鑑には梅雪の息子と勝頼の娘の婚約を勝頼に破棄された事から関係が悪化した…という話が書かれていますが、事はそんな単純なものではなく、それ以前にいろいろあったのだろうし、やはり政治と軍事が大きく関わっていたのだと思います

信君は駿河・遠江方面の取次でした。取次が出奔することはよくあります。敵国と交渉しているうちに、敵国の強さも言い分もわかるようになり、その事で国内を説得しようとすると味方から疑われたり、双方が納得出来るような落とし所を探しているうちに自分の立場が危うくなったり、「お前も大変だな」と敵国から同情されたりして「どうだ、うちに来ないか?」などと調略されたりするのです。梅雪も同じように、味方から疑われたり、自分の立場が危うくなったり、敵国から莫大な恩賞を約束されて調略されたりしたのでしょう。(もちろん「仲間になりますか?それとも戦争しますか?」という脅しは、背景に常にあったと思います。)

この辺の事を今年の大河ドラマで上手く取り入れてドラマにしてくれたらいいなぁと思っていたのですが…まあ、今年の主役は武田じゃないので無理でしょうね…
儂は今年の大河ドラマが始まる前に「穴山梅雪の名誉回復、汚名返上が出来たらいいな」と言いましたが、今回は無理でも、いつかそんなドラマが見られたらいいなぁと思っています

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以上が穴山梅雪について思う事です。
儂は研究者ではないので、多分に想像力が働いて小説のようになっていますがご了承ください。

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