保護猫を知るまで⑦〜初代猫「ワタナベ」の旅立ち〜
ひときわ小さく母猫のおっぱいを吸うことができず弱っていたところを保護したワタナベ(以下ワタ)。
その後大きな病気もなく過ごしかわいいおばあちゃん猫になった22歳の頃、突然の痙攣発作を起こし、病院へ。その後、痙攣発作は落ち着き腎臓病と付き合っていくことに。
ワタが初めて痙攣発作を起こし通院が始まってから2年が経ちました。
定期的に通院して腎臓の数値を確認しながら皮下点滴の量と頻度を決めていき、毎日を穏やかに自宅で過ごすという生活でした。
24歳になっていたので、人間でいうと100歳以上!
何か急変することも可能性としては十分あるとお医者さまには言われていましたが、ゆるやかに病気が進行しつつも2年穏やかに過ごすことができ、その生活に人間も慣れてきていました。
おむつのケア、食事のサポート、投薬と点滴。。。
最初はうまくいかなかったことも、ワタの癖、嫌がることを覚えてルーティーンとなり、長い外出こそできなかったけれど、一緒に過ごせる時間を慈しんでいたように思います。
ある日の病院への通院日、いよいよ腎臓の数値が末期の数字となってきたとお医者さまに言われました。
人間たちは覚悟をしていたつもりだったけれど、いよいよお別れの時が近づいたことに大きく動揺しました。
"近い未来、全く食べられなくなる可能性が高いです。
そうなれば、命は数日〜1週間くらいでしょう。何か好きなもの、塩分があってもおいしい出汁とか食べさせたり飲ませたりしてあげてくださいね。
体温が低くなってきているので、あったかくしてあげてください。"
その日から、ワタが若い頃にに人間の食卓からこっそり盗んで食べたまぐろのお刺身や、おいしい鰹節でとった出汁などすすめてみたのですが、匂いは嗅ぐものの口をつけず。
咀嚼が億劫になっていたけれど、一番好きだったモンプチのカリカリを細かくしてみると食べることはなかったけれど、ペロペロなめていました。
そうしていよいよ食べることができなくなり、ほぼ寝たきりとなりました。
それでもなでなですると気持ちよさそうな表情をして、とてもかわいかったです。
おそらく体力も相当なくなっていたのだと思います。しばらくワタの声は聞いていませんでした。
いつ何が起きてもおかしくない状況になってきたと判断した人間たちは、ワタをひとりっきりにすることができず、猫用の抱っこスタイのようなものを準備し、一緒に抱っこをして通勤するようになりました。
幸い、当時は職場は自宅から徒歩圏内、自営業なのでそれが叶いました。
職場にもワタのベッドを用意し、スヤスヤと眠っていました。
一緒の通勤をはじめて数日が経った時のこと、いつも静かに眠っていたワタの息遣いが荒くなり、明らかにいつもと違う様子になりました。
慌てて抱っこをして「ワタ〜」声をかけつづけましたが、ワタは目を閉じて肩で息をしています。
そしてしばらくすると、突然目を開き、「にゃ」と可愛い声を聞かせてくれました。
驚きと久しぶりに声を聞けたうれしさを感じた瞬間、ワタは家族の腕の中で旅立ちました。
あと少しで25歳を迎えるところでした。
続きは次回。
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