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理数系短編小説『45°の人』

 夜八時を過ぎ、私は大学正門前のバス停で最終バスを待っている。大学図書館で卒論の資料集めをしていたが、思いのほか時間がかかり、帰宅がこんな時間となった。
 バスを待つ間、私はいつものようにスマホで『職業マッチングサイト』を開いた。
 私、どんな職業に向いているんだろう?
 とりあえず三十の設問に順に答え、決定ボタンをタップすると、
『カリスマ美容師』
 び、美容師?いちおう大学で天文学を学んでいる私がなんで!確かに手先が器用で、人と話すの嫌いじゃないけど、いまさら美容師って。しかも『カリスマ』?「ゆるふわカワイイ小顔ショートボブが、これからのオススメです」とかテレビで言うの?と、やり切れない気持ちになったその時、私の視界に人の頭が!
「えっ?」
 振り向くと、人が倒れそうになっている。
「あっ、危ない!」と思ったが、その人は倒れない。倒れないで、その姿勢を保ちながら向こうに歩いている。なんにも支えられず、45°きれいに体を傾けながら。
 どうして倒れないの?っていうか、どうしてそんな姿勢で歩いているの?どうして?どうして?
「お客さん、乗りますか?」
 バスが来ていた。驚きのあまり、目の前のバスに私は気づいていなかった。

「ねー、ねー、聞いて!」
 次の日研究室で、博士課程一年の枡先輩に昨日のことを話した。
「ん? 理香子さんどうしたの?」
「昨日変な人がいたの!」
「変な人?」
「そう、45°の人。体を45°傾けながら歩いていたの」
「45°って、どういうこと?」
「45°ってこう……」
「あーっ、危ない危ない!」
 45°斜めになって歩こうとすると、転びそうになって枡先輩に止められた。
「おいおい、そんな姿勢で歩けるわけないじゃん」
「いや本当なの。昨日正門でバスを待っていたら、45°傾きながら歩いていたの。本当なの!」
 パソコンの前で、電波望遠鏡の観測データを黙々と解析していた同期の横山が一言つぶやいた。
「理香子さん、とうとうおかしくなったか……」
「おかしくなってないよ、本当なの。横山君も信じて!」
 コーヒーの香りがした。ドリップコーヒーを淹れていた枡先輩が私の方を振り向いた。
「それより理香子さん、進路どうするの? もう10月も終わりになるのに、まだ決まってないんでしょ?」
「うーん」私は口を尖らせた。
「高校の臨時教員の申し込みはもうしたの?」
「うーん、先生か……」
「大学院にも行きたいって言ってたけど、どうするの?」
「うーん、私そんな頭良くないし……」
「最初がんばってた就職活動も、七月以降していないみたいだし。あと卒論も大丈夫? ほら、夏にやった電波望遠鏡の解析もまだ進んでないんでしょ?」
「うーん……」
「自分のことなんだから、ちゃんとやった方がいいよ。45°なんて言ってないで」
 誰も信じてくれない。「あーあ」と私は長椅子に倒れ込んだ。
「あっ、1時! ゼミの時間だよ」と枡先輩は時計を指さした。ゼミは毎週火曜の午後1時から。発表は横山と一緒に一週間ごと交互におこなっている。先週は私だったので、今日は横山の番だ。
「横山君、準備オーケー?」と私が横山に顔を向けると、えっと横山は目を丸くした。
「今日は理香子さんじゃない?」
「えっ、私? だって先週私だったよね」
「そうだけど、天球座標系の基本をまったく理解してなかったんで、そこを復習して来週発表するようにと教授に言われたでしょ。だから今日も理香子さんだよ」
「しまった、忘れてた!」私は慌てた。まだ来週だと思ってのんきに構えたいた。
「ヤバイ、ノート持ってきてない、どうしよう。うーん、横山君ノート貸して!」
「ノート? まあいいけど、準備しないで大丈夫なの?」
「大丈夫、横山君のノートがあれば。でも……、なんかあったら助けて!」
 ということで、私と横山は急いでゼミ室に向かった。振り返ると、枡先輩はコーヒーを持ったまま、心配そうにこちらを見ていた。

「さて、今日は天球座標系についての復習でしたね」
 教授がそう告げると、私は名前のところを大きめの付箋で隠した横山のノートを、さも自分のノートのように大事そうに抱えて黒板の前に立った。教授は椅子に座り、腕を組んでじっと下を向いている。
 天球座標系のはなし、どこに書いてるの?
 自分のノートじゃないので、どこに何が書かれているのかさっぱりわからない。
「理香子さん!」
「はい?」
「いや、はいじゃなくて始めてください」
「あっ、はい。わかりました」
 えーっと、あった。
 私はチョークを持った。
「物体の位置を数学的に記述するには座標系が必要でして、その座標系の種類には絶対座標系と、えーっと、えーっと」
「相対座標系」横山の小さな声が聞こえた。
「相対座標系がありまして、特に、天体観測で使われる座標系としては、絶対座標系」
「絶対座標?」教授が私の顔を見上げた。
「あっ、いや相対座標です。相対座標系。宇宙空間では天体も銀河も終始停止することなく動いています。宇宙そのものも膨張しているので、絶対的な中心を宇宙空間に設定するのは困難です。よって天体観測では、相対座標系を用いることに……、なる?」
うんと横山は小さく頷く。
「なります。そして相対座標系の種類としては、一番直感的な、えーっと……」
「地平座標系」再び横山の神の声。
「そうそう地平座標系。地平面を基準にした地平座標系と、あとは赤道面を基準にした赤道座標系、地球の公転軌道面を基準にした黄道座標系、さらには銀河円盤面、つまり天の川を含む平面を基準にした、えー、えー」
「銀河座標系」
「横山君黙ってて」悪魔の声がした。
「その銀河座標系では、どこを銀河系の中心と定めていますか?」
「それはその、えーっと」
「では銀河座標系での座標の取り方は?」
「えーっと、それは……」
「準備不足のようですね。今日のゼミはこれで終わりにしましょう。来週もう一度準備をしてゼミに臨んでください」
 そう言ってゼミ室を去ろうとした教授は、振り向きざまに一言言った。
「理香子さん、ちゃんと自分のノートで発表するように」
 付箋が落ちていた。
 ノート表紙に書かれた『YOKOYAMA』という文字が、くっきりと私の目に飛び込んだ。

 それから一週間、私はしっかりとゼミの準備をした。そしてゼミは完璧に終わった。「よく頑張りました」と教授も褒めてくれて、なんだか嬉しかった。ほんの一回のゼミではあったが、目標に向かって努力したことに、私はとても充実感を覚えた。
 その間、45°の人を見かけることは一度もなかった。見間違いだったのだろうと、私はその人のことを忘れかけていた。
 ゼミ終了後、図書館の閉館時間まで卒論の資料集めをし、大学正門前で帰宅の最終バスを待った。先週以来のバス停。あの人が現れて以来の最終バスだった。
 忙しい一日を終え、これで帰宅とほっとしたのも束の間、再び将来の不安が襲ってきた。
 自分は何に向いているのかな――
 私はスマホで、一週間ぶりに『職業マッチングサイト』を開いた。先生かな、大学院進学かな……、進学しても研究者になれるわけないし。就職しようかな、でもどこに……。とりあえず、前回と少しパターンを変えて三十の設問に答え、決定ボタンをタップすると、
『スーツアクター』
 なんだこれ、仮面ライダーか!確かに体を動かすのが好きで、人前に出るのも苦手じゃないけど。うーん、このサイトはダメだ、と別のサイトを開いたその時、
「えっ!」
 すぐ横に人の頭が見えた。あっと振り向くと45°の人だった。45°きれいに傾いて向こうに歩いていた。先週もここで最終バスを待っている時だ。
 あっ! 私は気づいた。
 そうか、この時間なんだ。最終バスのこの時間に、この人は正門前を通るんだ。そうだカメラ、カメラ。
「お客さん、乗りますか?」
 ちょうどバスが止まった。先週と同じ運転手さんが不審そうに私を見ている。スマホのカメラを起動しようとしたが、慌てて操作に戸惑った。「お客さん!」と運転手さんが急かすので、私はバスに乗り込んだ。そして後部座席に走り、後ろの窓からカメラを向けたが、その人の姿はもう見えなかった。

「また見たんだよ、45°の人」
「またその話?」枡先輩は呆れ顔で答えた。「写真とかあるの。スマホで撮れるでしょ?」
「撮ろうと思ったんだけど、ちょうどバスが来て」
「証拠が大事だよ、証拠証拠。客観性のあるデータ」と、横山も横から口を出す。
「その人、バスの最終時刻に大学正門に現れるんだよ。前もそうだったから。ちょうど今その時間だから、行ってみない?」
「えっ、行くの?」先輩は苦い顔をした
「絶対この時間に現れるから。絶対来るから。お願い、みんな信じて」
「うーん。まあ、理香子さんがそう言うんだったら」
 先輩は横山をちらりと見て「一緒に行くよ」とコートを羽織った。横山も渋い顔をしてジャンバーの袖に腕を通した。

 私たち三人は大学正門前のバス停でその人を待った。あいにくの大雪。爆弾低気圧が近づいているらしく、風も強まってきた。雪を被りながら待つこと十分。天井に雪を乗せて最終バスがやってきた。私たちはそれに乗らず、さらに五分ほど待ったが、結局その人は現れなかった。
「うー寒い。理香子さん、来ないじゃん」
 先輩は寒さで肩をすぼめた。
「なにかと見間違えたんじゃない? ほら、あそこの斜めの木も、車のライトで人に見えるでしょ」
 横山もまったく信じていない。
「でも確かに見たんだよ! あーもう嫌だ!」と自己嫌悪に陥ったその時、遠くに人影が見えた。車のライトを背に受け、傾いて歩く人の姿が見えた。
「あっ、いた!ほら、あそこ!」
「えっ!」先輩は目を丸くした。
「何だよあれ、傾いて歩いてるぞ!」横山も声を上げた。
「ほら言ったじゃない。ちゃんと見たんだから。こっちに来るよ」
 吹雪が強まる中、45°の人はこちらに向かって歩いて来る。迷わない足取りで私たちの方に近づいて来る。直ぐそばまで来た。私の心臓は高鳴る。深く被った帽子。その帽子のつばと吹雪に隠れ、顔は暗くてよく見ない。そして私たちの前を通り過ぎ、45°傾いたまま向こうへ歩いていった。
「ほらいたでしょ、45°の人。でも変だよ、角度間違ってる」と私が声をひそめると、先輩はなにやら神妙な面持ちで話し出した。
「いや、間違っているのは僕らかもしれない」
「えっ」私は先輩の顔を見上げた。
「僕らは地面を基準に立っている。だから90°で僕らは地面に立つことになる」
「でも、それって普通ですよね……」
 なんでそんな当たり前のことを……と思ったが、先輩は話を続けた。
「そう、それが普通。でも言い換えれば、それが楽だからとも言える。みんなと同じことを考え、みんなと同じ生活をし、みんなと同じ人生を送る。それが普通だし、楽なんだ。でも、あの人は違う」
先輩は向こうに歩く45°の人を見つめた。そしてさらに話を続けた。
「僕らは地面に対して90°で立っているけど、それはあくまでも地面を基準にしているから。でも、地球の赤道面を基準にすれば90°ではない。ここは北緯43°だから、赤道面を基準にすれば43°傾いて立つことになる」
 真剣な表情。先輩はさらに話を続ける。
「基準は赤道面だけではない。地球は23.4°傾いて公転しているから、公転軌道面を基準にすればさらに傾きは変化する。そしてさらに銀河円盤面を基準にすれば…………。つまり何を基準にするかで立つ角度は違ってくるんだ」
「じゃあ、あの人は何を基準にしているの?」
 私は先輩の目を見た。
「それはわからない」
 先輩は軽く首を振り、あの人を見つめた。
「あの人は真っ直ぐ立っているんだ。いま僕らが立っている地面ではなく、僕らの普通の座標軸ではなく、あの人なりの自分の座標軸を持って」
「はっ」と私は振り返った。
 もう45°の人は見えなかった。
 吹きすさぶ吹雪の中、その人の雪の足跡だけが力強くどこまでも続いていた。

(了)

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