青春短編小説『道の向こうへ』
『それでは、よろしくお願いします。開発チーフ 高梨達也』
明日は、新しいシステム製品の完成披露の日。慎重になりすぎる僕は、仲間が帰った後も一人で何度もチェックを入れるので、発表の前日はいつも真夜中になる。完成した資料を関係部署にメールで送信し、僕はパソコンをシャットダウンした。
こった肩を軽くほぐしながら窓際に向かう。目をこすりながら通りを見下ろす。暗い歩道に人ひとりいない。その歩道に沿って流れる川面にただ一つ、オフィスビル五階の、この部屋の明かりだけが黄色く映っている。逆光で陰る僕の姿もかすかに揺れている。
「最近、残業する人が少なくなったな……」
一つだけの窓明かり。水面に映るその黄色い明かりを見ると、僕はいつもあの日のことを思い出す。それは三十年前。まだ中二だった、あの日のことを。
「ん? どうした達也」
「みんな、ここに道あるの知ってた?」
「えっ、知らんけど」
「これ、どこに続いているんかな?」
「さぁ……」
「この道、行ってみようか」
その日は給食を食べたら学校は終わり。午後は職員会議なので部活もない。いつもなら五時間目の授業が始まる、七月中旬の平日の昼間。太陽がぎらぎら真上から照りつける時間帯。僕ら生徒は早々とコンクリート校舎から放たれ、そわそわと浮き立っていた。
そんな折、僕は友人の勇介、聡志、駿のいつもの四人で、学校の裏山に向かった。裏山へは自由に出入りできたが、放課後に入るのは禁止されていた。
学校から裏山に入るには、校舎裏庭にある急斜面を登らなければならない。裏庭には部活倉庫があり、二階の職員室からもよく見渡せるので、普段だと、裏山に向かう僕らの姿は丸見えになる。すぐに先生に見つかり、「お前ら、どこに行くんだ!」と必ず怒鳴られる。だけど今日は部活もなく、しかも職員会議。先生はみんな職員室にこもり、資料と黒板だけを目で往復させている。
「よし、行くぞ」
僕らは家に帰る振りをして裏山を目指した。部活倉庫にかばんを隠し、裏庭を忍者のようにそーっと通過する。山道までの急斜面は茂みに身を隠し、ゲリラのように這いつくばって登る。そうやって職員会議の日はいつも裏山に向かう。休日ではなく、放課後、先生の目を盗んで向かうスリル感。そうやってばれずに裏山に忍び込み、「よっしゃー」とみんなでハイタッチを交わすのだ。
裏山といっても、わかりやすい山道があり、その道に沿って歩けば、決して迷うことはない。道の両側はジャングルのように高い草木が生い茂ってはいるが、そこに立ち入らなければ大丈夫。僕ら四人はいつものように、歩き慣れた道を、探検隊になった気分で歩いた。この道さえ歩いていれば、怖いものは何もなかった。
鳥や蝉の声に合わせて口笛や草笛を吹く。いっそう強まる山のコーラス。仲間だと思ってだまされているようで、なんだか楽しい。
「あっ、スイカズラ!」僕らは花をそっと摘み取り花蜜を吸った。「あまっ」と、あまりの甘さで顔をくしゃくしゃにした時、ばさばさばさっ――。一羽の鳥が僕らの目の前を横切り、密林の中へ飛び込んでいった。
僕はびっくりしてその方向に目を向けると、草木の間から細い道がちらっと見えた。
「あれっ? ここに道あったかな……」
初めて見る道。僕は近づき、その道を目で追った。入り口こそ緑で厚く覆われていたが、か細い土の線が、上へ上へと続いていた。
「この道、行ってみようか」
「面白そうだ!」「行こう行こう!」
何気ない僕のひと言に、みんなはこぞって賛同した。よく見ると、槍のような枝木が前方をさえぎり、刃物のような枝葉がこちらを向いている。今までの道とは違い、人の進入を拒んでいるような野生の道。誰か一人でも「行かない」と言えば、僕らは行かなかっただろう。だけど、平日昼間の開放感。そして四人の連帯感。そんな雰囲気も手伝って、偶然見つけたこの一本の道は、僕らの心を釘付けにした。知らない道に入ってみようと、僕らの冒険心に火をつけたのだ。
分厚い緑の壁を両手でかき分け、僕らは道に足を踏み入れた。スポーツ万能でリーダー格の勇介を先頭に、学年一勉強ができる聡志、次に僕、そして最後尾には、ちょっと気弱で小柄な駿と、一列になって登っていった。
一歩道に入ると、ひんやりとした空気が肌を刺激する。鳥の声が深く聞こえ、草の臭いが鼻を突いた。
「みんな、離れるなよ」
勇介は少しでも歩きやすいようにと、危なそうな枝を折ったり、絡まりそうな草を踏み固めながらゆっくりと進んでいる。そのおかげで、後ろの三人はだいぶ歩きやすかった。
「そういえば、熊大丈夫かな。いつだったか民家の畑に出たって……」僕が心配を口にすると、聡志が落ち着いた口調で答えた。
「熊は意外と臆病だから、人の声が聞こえる方には寄って来ないよ。だから、大きな声で僕らの存在を知らせた方がいいね」
「よし、大きな声で話そう! あー、あー、あー、あしたの日直誰だっけ!」
僕はわざとらしく大きな声を出すと、みんな一斉に「わーい、わーい」「いえーい、いえーい」と、意味もなく大声を出し始めた。
「熊なんて怖くないぞ!」
突然、駿がかん高い声を出した。駿のこんな声は聞いたことがなかったので、みんな驚いた。四人の気持ちが一つになったような気がした。
一時間ほど登っていくと、トンネルが見えた。「おーっ」と僕らは声を上げた。トンネルといっても、僕の身長ほどの高さしかなく、すぐそこに出口が見える。よく見ると、四角形の木枠の上に、土を盛っただけの代物だ。しかも、その土には無造作に草が生い茂り、所々溶けるように崩れ落ちている。なんか気味が悪いなと眉をひそめていると、周囲をぐるっと見回していた聡志が冷静に話し出した。
「トンネルの左右に、同じ高さの土手が続いているね。しかもゆるい傾斜がついて、向こう側が徐々に下がっている。自然ではなく人工的に盛った感じ。もしかしたら、トンネルの上は線路、森林鉄道の線路があったのかもしれないね」
線路? なんでこんな山の中に。僕らは辺りを見渡した。言われてみれば、トンネルの上を鉄道が走っている姿がなんとなく想像できる。本当に線路があったのかも知れない。かつての人たちの日々の営みが、ここにあったのかも知れない。
「とりあえずくぐろう」勇介にうながされ、僕らはトンネルの中へ入った。木枠はあちこちが朽ちていて、土もぼろぼろとはがれ落ちている。「崩れないかな」と僕が不安げに言うと、「大丈夫。崩れるんだったら、もうとっくに崩れてるさ」と勇介は笑顔を見せた。
トンネルを抜けると、三十メートルほど道の先に、右上から光が差し込んでいるのが見えた。そこだけ緑が切り取られ、漂う塵を映す半透明の光の帯が、上空から地面まで真っすぐに伸びていた。「あっ、何だ?」勇介は草木をかき分け走り出した。
「おー、見ろよ」
勇介が何かを見下ろしている。僕らも追い着き、光の方に目を向けると、別世界の景色が眼下に広がった。広大な土の斜面。広い範囲で木が切り取られ、山肌をべろりと剥ぎ取ったように、土の斜面があらわになっていた。はるか遠くに杉林が見えるが、木の生えている部分と切り取られた部分の境が、はっきりと線になって見えた。
左に目を向けると、釜臥山の頂がいつもより近くに見え、その手前には、手でやさしくなでたような、なだらかな丘が見えた。その丘には白い花が一面に咲き乱れ、今まで見てきた濃緑の世界とは全く異なる、白一色の光景だった。
「おい、海が見えるぞ!」
勇介の声で右に目を向けると、遠くに陸奥湾も見えた。こんなに高いところから見下ろす陸奥湾は初めてだった。釣り針のように曲がって伸びる芦崎の砂嘴もはっきりと見える。海上自衛隊の敷地や、大湊の町も見渡せる。羽根を広げたアゲハチョウのような町並み。僕らの大湊中学校もぽつんと見えた。
「あっ、掃海艇!」聡志が指をさした。目を凝らすと一隻の掃海艇が小さく見えた。波一つない海の上を、音もなくゆっくりと進んでいた。
「プラモデルみたいだな……」
僕はぼそっとつぶやいた。ただ前に進む掃海艇が、電池で動くプラモデルのように見えた。格納庫もドックも護衛艦も、視界に入る全てのものがプラモデルのように見えた。
「あっ」と突然、駿が上空を指さした。その指の先に鳥がいた。太陽の下、そびえ立つ鉄塔の上に、白い鳥が一羽だけたたずんでいた。僕らは目を細めてその鳥を見上げた。鳥はこちらに顔を向け、心なしか僕らを見下ろしているように見えた。やがて、その鳥は首をくねくねと動かし、体を一八〇度回転させて僕らに背を向けた。そして姿勢をかがめ、翼を大きく広げて、すっと飛び立った。僕らはその鳥を目で追った。鳥はどんどん高度を上げて、大きな入道雲と重なった。そして白一色の丘を悠々と越えて、そのまま視界から消え去っていった。
「よーし、俺らも行くぞ、待ってろよ!」
勇介は丘を勢いよく指さし、声を張り上げた。その威勢につられ、僕ら三人も「おーっ」と拳を振り上げた。
僕らはさらに上を目指した。緑で覆われた細い道。どこまでも歩いて行けそうだった。そんな中、僕はあることに気づいた。
「なぁ、俺ら左の方に進んでないか? さっきの丘は右側だったよね」
少し沈黙が続いた後、勇介が口を開いた。
「確かにそうだけど、どこに行くのか分かってたら面白くないぜっ」
すると、「僕らは中学探検隊~」と、聡志が節をつけて歌い出した。後ろで駿が「わはは」と笑った。てっきりあの丘に着くものだと思っていた僕は、なんだか恥ずかしくなった。この道の先に何があるのか、それが分からないから僕らは登っていたはず。
前を向くと、相変わらず道は続いていた。先の見えない道の線が、どこまでも真っすぐに伸びていた。
どれだけ時がたったのだろう。木々の隙間から突き刺す日差しはいつの間にか姿を消し、辺りは薄暗くなっていた。それでも僕たちは登っている。一言も話さず、前へ前へと進んでいる。「うわっ、蛇!」僕は奇声を上げて飛び上がった。それは木の枝だった。「おいっ、びっくりさせるなよ……」と、みんな胸に手を当てて背中を丸めた。なぜか僕は過敏になっていた。倒れた木の根が獣のように見えた。ぶら下がった枯れ木が人のように見えた。木のきしむ音が大きく聞こえ、山全体が巨大な生き物のように感じた。薄暗い山は、昼の様子とまったく違って見えた。
「痛っ!」駿の方にみんな顔を向けると、ぶーん、「うおっ!」
駿の左手から黒い虫が飛び立ち、僕らの顔に向かって飛んできた次の瞬間、ばさばさっ。どこからか音が聞こえた。僕らははっと息を止めた。辺りは静寂に包まれた。鳥の声も、風の音も何も聞こえない。勇介は周囲を見回し、音をたてないよう、そっと歩き始めた。聡志もゆっくりと歩き出し、僕も進もうとすると、ばさっばさっばさっ。再び音が聞こえた。暗がりの中から聞こえてきた。僕らは固まったまま息をころし、神経をぴんととがらせた。何かが息を潜めているような気がした。ざざっ……。何か音がした。ざざっ、ざざっ。僕は後ろを振り向くと、駿が青ざめた顔で後ずさりしていた。駿は僕らの顔を見て、震える声で言った。
「ごっ、ごめん、帰る」
駿は来た方向へ突然駆け下りた。三人だけとなり、何かがぷつりと切れた。僕らは目を合わせるやいなや、
「わーーーー」
みんな一斉に駆け下りた。脇目も振らずに駆け下りた。腕のような枝木が、僕の体に何度もぶつかった。手首のような枝葉が、僕に向かって次々と伸びてきた。地面に足をつけると何かにつかまれる気がした。黒い何かが背中に迫ってる、何かが来ている、後ろから襲われる!
「わーーーー」
「おい! 何してるんだっ!」
僕は倒れたまま顔を上げた。人影と黄色い光が見えた。職員室の窓明かりだった。その明かりを背に、一人の先生が大声でどなっていた。僕は急斜面を転げ落ち、裏庭に倒れていた。みんなもそこにいた。
駿はうつぶせのまま、地面に顔をつけて幼子のように泣きじゃくっていた。勇介はひざまずいて、草を地面に叩きつけて悔しそうに目に涙を浮かべていた。聡志は立ったまま空に顔を向け、涙で顔をくしゃくしゃにしていた。僕は足の痛みを我慢して立ち上がった。泣くまいと顔を上げ、なんでもない振りをした。けど意に反して、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。あふれ出る涙を止めることはできなかった。それでも僕は涙をふかなかった。泣いていないと思いたかった。目に映る一つだけの窓明かり。人影を照らす黄色い光が、ゆらゆらと目の前に広がっていった。
川面に映る窓明かり。その中で僕の影もゆらゆら揺れている。あの日と同じ黄色い光。
「あれっ」窓に映る僕の顔。目尻のしわが少し垂れ下がっていることに、今初めて気づいた。指でほんの少し吊り上げると、見慣れた顔に戻る。指を離すとすぐに垂れ下がった。僕も年をとったな……。
「そうだ。今年は久しぶりに実家に帰ろう。そしてもう一度、あの道を登ってみよう」
どこまでも続く道。その先に何があるのか。今なら行けるかも知れない。
あの時行けなかった、その道の向こうへ。