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「場所はいつも旅先だった」(1002字)

お久しぶりです。
どうもここのところ忙しく、なんとなく落ち着かないでいました。
やっと一段落したので腰を据えてnoteを書こうとした次第です。

今晩は、(最近Twitterでバズっていたのもあり)松浦弥太郎氏による映画「場所はいつも旅先だった」を観ました。
暮しの手帖元編集長が切り取る世界各地の夜と朝、平たく穏やかに添えられる小林賢太郎のナレーション。この上なくヒーリング映画でした。




日常の中にある非日常ではなく、非日常の中にある日常。
いつもの生活圏を抜ければもうそこは非日常であり、それでいてそこには知らない誰かの無数の日常がある。彼ら彼女らにとってはそれが当たり前の暮らしであり、いつも通りの朝と夜である。
ルーティン的に生きるとつい忘れてしまうその感覚を呼び起こされたような感じがした。
まだ海外旅行をしたこともなく、人生のほとんどを身近な生活圏で過ごす齢の浅い私にはこの世界はあまりに広く複雑だが、その根底にある人々の日々はいつも共通しているのだろうと思う。

私は夕焼けや朝焼けのあの曖昧な時間、ブルーアワーとかトワイライトタイムとかいろいろに名づけられているああいう時間が好きだ。
実際日常的にそれを見ている訳ではないけれど、たまに中途半端に目覚めてしまったときはベランダからそういう空を眺める。すごくセンチメンタル。
常に朝と昼と、昼と夜と、夜と朝とには境目があり、等しく人々を照らしたり陰に仕舞ったりしている。あの赤い空と青い空の境目の白っぽく霞んだところが、世界中を巡回し続けている。そんな感じがする。

程々に田舎な住宅街じゃあ、基本日が昇るその時まで夜は夜としてそこにある。早朝から働き始める漁師やタクシードライバー、お経を唱えるお坊さん、鳴き出す家畜もいない。眠らない街の、対局である。
広い世界の温度や香り、音を感じるとともに、静まり返ってすっかり夜を迎えたこの町へのそこはかとない愛おしさも感じた。


改めて、私は日常という概念が好きなんだと思う。
劇的な瞬間も壮大なストーリーも、対比的に紡がれ続ける何気ない毎日があるからこそ。その毎日が他者から見れば全くもって新鮮であること。
繰り返して、廻って、穏やかながら移ろう空気を感じて生きていたい。

最近は深夜窓から吹き込む風が涼しい。
この季節、この時間帯にしかない香りと温度を肺胞の一つ一つにまで行き渡らせて、十分に満ち足りたら、眠ろうと思う。
おやすみなさい。



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