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学校の宿題は必要なのか?
こんにちは、すうじょうです。さて、今回は多くの方がnote上で個人的な意見を述べているものを多く見かけ、いいなと思ったり、そういう考え方もあるななどと思ったものはスキをしたりしています。なので、自分もそういった意見を発信したいと思い書きだした次第です。テーマは特にこれと決めていたわけでもなく、この不安定な状況下において学校の授業形態の変容が求められていた中で、宿題が大量に出されたという学校も多くあったと聞いたので、書いてみることにしました。はじめに、こういった意見の分かれるテーマには、様々な考え方があっていいと思います。これは、あくまで私個人(教員ではなく生徒側の視点です)の意見と思ってお読みください。
一番大切なのは生徒(児童)第一であること
まず、本題を始めるにあたり、宿題の有無あるいはその存在は先生のためではなく、生徒・児童のために存在するということを意識しておくことが大事だと思います。そのうえで、生徒のためには何が一番いいのかといいうことを考えていきます。つまり、合ってはいけない形としては、先生が体裁としてあまり考えずとりあえず宿題を出すといったことはNGだと思っています。宿題を出すときは、どういった目的で出すのか、生徒にとってどのように役立つのかということが明確に決まっていないといけないと思っています。
生徒(児童)にとっての宿題とは
ここでは、宿題の有無以前に生徒や児童は宿題というものをどう考えているのだろうかという一般的な話を考えたいと思います。これは間違いないと思いますが、日本の多くの子どもは宿題というものを何か嫌でめんどくさくて、自分の自由な行動に足枷としてついているようなものだととらえていると思います。もちろん、意識の高い子は宿題を楽しんで解き、それに達成感を得たり、あるいは宿題の必要性を自分で認識している子もいると思います。しかし、多くの子にとってはそうではないはずです。ゴールデンウィーク・夏休み・冬休みの宿題、特に夏休みは様々なところで語られるように壁としてのしかかってくるはずです。私自身を振り返ってみると、一定程度の必要性は理解していましたが、それでも宿題というのは面倒で嫌なものでした。
意味のない宿題のやり方
さて、私は違いますが、小学校の時に夏休みの宿題を夏休み終わりぎりぎりに、あるいは終わってから先生に催促されてからやったという人は少なからずいるはずです。そのときに次のような意味のない宿題のやり方をした人がいるはずです。
①答えを丸映しして、全部丸にする。あるいは、それに近いことをする。
これは、追い詰められたときに最低限の時間で宿題を終わらせる、もしくは面倒だからとっとと終わらせたい人が丸付け用にもらった答えを丸写しして、全問正解にするという行為です。または、少しずるがしこい人は答えをみながら、語尾や語彙を自分オリジナルのものにして答えに似せて丸にしたり、「これは正解できないだろう」と思う問題を白紙あるいは少し書いて×にして、赤などで答えを写すという人もいるかもしれません。これは、演習をして実力をつけたり、知識や解き方を自分で解けるか確認するという観点においては意味をなさないやり方だと思います。しかし、もしあなたがアンチ宿題・学校で自分でやりたい問題集をやって、代わりにそこで力を付けるというのなら問題はないのかもしれません。しかし、代わりになるものなく、単にさぼるのはよくありません。
②他の人の答案を写す。あるいは、ネットなどからコピーアンドペーストをしてくる。
これは、大学生以上の方ならよく分かっていると思います。レポートなどで他人の意見や主張、実験結果等をコピーアンドペーストすれば、0点となり該当科目、下手すれば学期科目全ての単位を落とします。これは、そもそも考える労力を使っていないという意味では、①とほぼ同じですが、あたかも自分の意見などであるかのように書いてある分凶悪です。もし、相手が知らないうちにコピーしていた場合は当人だけが悪いですが、相手が協力していた場合は両方とも悪いということで、きちんとしていた方も含めた両方が単位を落とされることが多いと思います。これをするくらいなら、テキトーに書いた場合や①の方が少しは考えているという意味では効果があるでしょう。
③そもそもやらず、出さない。白紙提出。
これは、まあ分かると思いますが、宿題の点数は0点になりますよね。それでも、②よりはマシな状態になるでしょうが、これは受け取る相手側に悪印象を与えます。もし、宿題をやらないのを続けた場合、その科目の単位を落としてしまう場合がほとんどだと思います。宿題が嫌だとしても、きちんとやって出すのが望ましいです。
宿題は適切か
よく、宿題は必要だという主張において、宿題で授業の内容の理解度を確認したリ、あるいは読書感想文等では表現力を鍛えたりするために必要だと聞きますが、そこについて考えてみました。脳にどういう影響を与えるだとかそういうことは専門の方にお任せするとして、ここではそれが適切なのかどうかについて主観的にはなりますが、検討していきたいと思います。
まず、ここでは宿題というのを主に2種類に分類したいと思います。1つは、演習型で、数学・英語・国語などの宿題で問題集を解いて、丸付けをして提出といったものです。もう1つは、自由型で、大学でのレポートや読書感想文、プレゼンの準備などです。演習型の宿題は授業内容の確認または予習のために使われ、適切な問題を選択できていれば苦手の発見や授業内容を理解しているかというチェックなどに使うこともできます。しかし、一般的には高校には様々な学力の生徒がいて、また同じ生徒でも分野によって得意・不得意があります。だから、宿題が難しすぎて解けない子がいたり、速く解き終わる人もいます。つまり、その人・分野によって適切なレベルは異なるのです。ですから、全員共通で同じ問題を宿題とするのは理想的な宿題という視点で見ると、間違っていると思います。もちろん、現実的には現在の学校のシステムでは生徒ごとに適切な問題を提供することは先生の負担等の理由から難しいです。次に、自由型の宿題は、ある程度の決まった制約の中で生徒一人ひとりが自分でどうするのか内容や量を検討し、決定します。読書感想文というのは、自分で文を組み立てて段落を構成する力を小学生などのうちから養うという意味では必要だと思います。一方で、ごまかしのようにただあらすじを紹介するだけの読書感想文を書くのはほぼ意味がないと言えるでしょう。また、レポートに関しては、大人としての文章の構成力を身に着けるために必要あったり、データや資料の内容を自分で整理しまとめる力を養うなどという意味でも必要だと思います。
今回の結論
さて、ここまで宿題に関していくつかの点に注目して、考えてきましたが、今回の結論としては必要なことが多いけれど、今の形態がベストかといわれるともっと良い形があるのではないかということです。この宿題についての考えは、個人的にはまだ話したりないので、後から別の記事で続きのようなものを書きたいと思います。では。