我を捨てる

まもなく鍼灸・マッサージ指圧師になって6年目になる。

卒業前に「5年間が大変で、大切だよ」と何人かの先輩鍼灸師に言われた。

基礎ができるし、そこで身に(染み)ついた基礎は良くも悪くも後に引くからだそうだ。

治療が技術的に固まってきたり、自分のやり方が納得できてくるのが「10年くらい」と言う人がいる。

体感的にも、「そうなのかな…そうなのかも(なげぇな)と感じる今日この頃。


さて、題名の「我を捨てる」とは専門学校時代、臨床実習教官にもらったフィードバックで印象的だった言葉である。

教官「治療って我を捨てることが大切だからね。」

私「はい・・・・(???)」


当時は「我」は私のパーソナリティについて言われているのか?と思っていた。

『この人、そこまで私のこと知らないのに、なんで我?』と思って真に受けなかった。

でも、引っかかっていた分、折に触れて思い出す言葉となった。


最近になって、治療においての「我を捨てる」がなんとなく意味が分かるような気がする。

スタンダードな医療を選ばず、あえて鍼灸院を探してくる人は症状の経過が長い。ましてや私のところ(看板も出さず細々とやってる)へ来る人はその傾向が強い。

長いこと「痛み、辛さ」を抱えていると、

・病院で言われたこと

・自分で調べたこと

・周囲から得た情報(これで治ったよ!)

・自分の感覚

これらが合わさって「私の痛み/辛さは〇〇が関係あると思う」「◇◇ではないと思う」など、その人なりの自分の症状に対するイメージが出来あがっている。※これを「説明モデル」というらしい。

すべての人が明確な答えをもっているわけではないが、その人なりの「見えている体の状態」がある。


一方で、治療する側にも治療者としての「体のイメージ」がある。

問診や身体診察から情報を集め、おおまかに悪さをしている部位や原因を頭の中でイメージが出来ていく。これは治療経験が長くなればなるほど自動的に行われる。

この「自動的」というのが問題なのだ。良くも悪くも治療者は頭の中にある知識と経験則によって「診たい様に見えている」からだ。

経験豊富で、実績がある治療者ほど自分の鑑別能力に自信を持っている。そのため治療者がもつ「体のイメージ」は強固になり、患者さんのそれとズレが際立ってくるのだ。

このズレに気づかないまま、もしくはズレを訂正しようとして患者さんと関わると、治療者側の「正しさ」を患者さんに押し付ける結果になる。

※医学的にどちらが正しいかどうかは、ここでは重要ではない。


では、どうしたらいいのか。


患者さんのイメージをまずは聞く。たとえ自分のイメージとのズレによって「それはどうなのか?」と疑問が浮かんでも、聞く。

なんでそう思うようになったのかまで聞く。(ここ大切)

この疑問が浮かんだ時点で、専門家としての意見を早々と入れてしまうと色々と支障が生じてくる。

「この人は話を聞いてくれない」「この人はわかっていない」心理的な壁が出来てしまう。信頼関係のつくりそこなった、というわけだ。

信頼関係がないと、どんなに正しいことを論理的に話をしても、受け入れてもらえない。

話していてもノレンに腕押し状態に陥る。

治療者側は「ん?理解していないのかな?もっと説明してみよう」と我を押し出し続ける。

そうなると患者さんは「ちょっとしつこい・・・」

二人の距離は離れるばかり。笑


心理的に閉じている人に体を預けて、安心して治療を受けられるだろうか。

それは「NO!」だろう。

鍼灸マッサージという肌に触れて行う治療では、患者さんが安心して体の緊張状態がぬけていることが治療結果に影響する。


「我」とはパーソナリティとかそんな問題ではなかった。

おそらく教官が言いたかったのは「患者さんと信頼関係を気づき、心と共に体も預けてもらうためには、まずは自分の意見や正しさを伝えるのではなく、相手のそれを受け入れるのが必要だよ」と言いたかったんだろう。

たぶんそうだろう。


この考えを得て、今の私が思うのは、

我は全部捨てればいいわけじゃない。「我」は捨てられない。(私は)

何をもって改善なのか、それを測る指標はきちんと自分の中に持っておくべきだとと思う。じゃないと迷子になる。患者さんの言葉に寄り添うことはもちろん大切だけれど、治療においては「我」は持っていく。それを見せるか見せないかは、相手との関係性で調整する。

「よっしゃ、今なら話しても受け入れてもらえるかな」そういった感触や関係が得られるまで待つ。そんな感じ。

我は横において頃合いを待て

現時点ではこれが私の「我の捨て方」である。




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