ナズナとヨモギと小さな不協和音
長男が中学校に入学したので、その関係で中学校に出入りする機会があるのだけれど、改めて義務教育は苦手だなと親のわたしの方が再確認させられております。
知ったり、体験したりするのっておもしろいことなのに、学校という場になるとなぜあんなにつまんなくなってしまうのか考えてみたのだけれど、それはきっと型にはめられてしまったり、ゴールが決まっていてそこに行くように仕向けられたりするのを感じとってしまうからなんだろうな。
圧によるコントロールへ不信感や威厳の薄っぺらさを子どもながらに感じていたり。
だから、どんな先生と出会えるかで大人を信頼できるかや、社会への興味や関心に強く影響が出るように思う。
中学校から「子どもに向けて親が望むこと」を学習面、生活面、総合面からそれぞれ書くように用紙が渡されたのだけれど、どうしても書くことができなくて、文章が苦手な夫に投げてどうにか書いてもらった。
「自分が思うように好きに過ごしたらいいよ」という言葉しか浮かばなくて、そこに自分と中学校という場とのギャップを感じてなんだかしんどくなってしまった。
正直、子どもたちが本音を隠したり諦めたりして、先生が求めるであろう答えの範囲内での繕った言葉に変換させているのをみるとなんだか違和感を感じてしまう。
遊びながら学んで
学びながら遊ぶ
強制、矯正されない学びは楽しいのになぁ。
ま、結局は、「学びを体験に変えていくシュタイナー的な学習法の方が親和性が高く、日本の既存の教育方法には適応できなかったという自分の過去」を子どもの上に重ねて見てしまっているという話なんだろうけど 苦笑
どうやら、自分の中でまだ未消化(未昇華)な部分があるようだ。
それでも、信頼がおけて人間的に好きだった先生たちもいたし、そんな先生がいたから苦手な環境でもどうにか通うことができていたりはしたのだけれど。
近所の誰かの土地。
水仙が年々増えていっていておもしろい。
群生している。
邪魔な存在認定されると雑に扱われてしまうものなのね、と思ったりした。
それでもヘソを曲げずに成長のサイクルを止めない木の存在は痛々しくも眩しい。
人の行動って、その人の内面が見え隠れしちゃうもの。
よもぎ
5月くらいまでの若葉はまだアクがあまりないらしく塩を入れて茹でればいいそうだ。
茹でたら冷水で色留め。
茹で汁からはいい香り。
淡い緑色。
色水みたいで綺麗な色だった。
刻んでみると繊維質であるのがよくわかった。
繊維をつぶすようにすり鉢ですりつぶしていく。
そこに白玉粉を入れてよもぎの白玉だんごにした。
家にあったあんこをつけて食べたら想像以上においしくて、長男もペロリとたいらげていた。
虫刺されや小さな切り傷には、生の葉を揉んで汁をつけるとよい
ご近所さんから昔は天ぷらにしてよく食べていたという話を聞いた。
夫からは、遊びで川でモリを使ってイワナをとっていたときにゴーグルの曇り止めにヨモギの葉っぱを使ってたと教えてもらった。
万能すぎか!ヨモギよ。
なずな
若葉を青汁にして飲むほか、おひたしなどの料理に普通に使うこともできる
目の充血には、10gを200mlの水で煎じ、こした汁を人肌に冷まし、脱脂綿に浸して洗眼すると効果があるといわれる
先日の干しもの
カブ、白菜、りんご、なずな
リンゴは1日干すと半生っぽい感じになっておもしろい食感になった。
2日ほど干したら後味が干し柿に似た感じになって、その味が苦手なわたしは半生くらいが好みなようだ。
ピタゴラスの定理が ♪
「生活」って本来、たくさんの知恵がつまっていて、こんなにも奥深いものなんだと気づかされた。