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フツーの映画短評

 つい最近、「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」を端末で観終えた.昼時に不味そうなハズレの寿司屋に入ったと思ったら、実は税込み900円くらいの旨くてリーズナブルな海鮮生ちらし寿司を食べたような心持ちであった.エヴァンゲリオンと言えば日本のアニメーション作品群を指し、作中では汎ヒト型決戦兵器かつ人造人間のことになる.この作品群であるエヴァンゲリオンシリーズは1995年から1996年まで地上波で放映され、2007年から新劇場版と称して計四作が作られた.私が始めて鑑賞したのは大学受験に落ちた2009年の頃で、きょうだいが謎の動機でレンタルしてきたテレビアニメ版DVDを虚無感とともに観たのであった.

 当時の正直な感想は、序盤の作品のテンポこそ良いが徐々に陰鬱な展開が続き、意味のわからぬ用語が次々と現れ、映像も使いまわしが増えてきたために「なんだか超不安定だなぁ」という否定的なものでしかなかった.だがその不安定さは妙に引っかかるものであった.

 へなちょこうんこ大学生になってからしばらくして、私はふと手元のPCで新劇場版、「序」と「破」を観た.「へぇ〜なんか旧劇(テレビアニメ版)と違うじゃん.でも流石映像は流麗だな」という凡庸な感想を抱き、少しだけ次回作への期待を高めた.しかし2012年の三作目「Q」により、私は期待しすぎるのは良くないと学んだ.作品の流れがわかってきたと思いきや再び暗がりに迷い込んでしまった.作中の重要な用語である「人類補完計画」にちなんで、「Q」の視聴者が困惑した現象を「人類ポカン計画」と人々が揶揄したのも頷ける結びで、作品の理解が非常に困難になった.果たして最終回となる「シン・エヴァンゲリオン」でちゃんと広げた伏線を回収しつつ完結できるのか、という望みはもはや絶たれたのではないかと思われた.よって「最新作がついに出る」という流言にも気にも留めず、私は淡々と定期試験の再試験に望み、卒業試験を恐れた.私はおよそ医学に向いていないという自身の不適性を肌で感じる日々であった.真冬の北海道の空気は冷たかった.いやマジでつらかったっす!泣けたっス!「えーっ」マジ泣けたっス!ひどい成績具合にマジ泣けたっス!私は解剖学やら生化学やら物理学、微生物学、基礎医学などには全く心を傾けることはできなかった.せいぜい頑張って「良」、殆どが「可」であった.心理学と英語だけ「優」であったのは私の得意不得意を反映しているとしか思えぬ.とりあえず「原級留置の刑」を受けず、CBT、OSCE、卒業試験も辛うじて合格できたことは私の社会的な尊厳を保った.やはり人は得意技で勝負した方が良いだろう.

 その後、ありがたく私はお賃金をいただく立場となり、月日は流れた.研修医のころは敗血症など重症感染症治療を主とする集中治療に奔走していたが、ある日私は精神病理学の可能性を自覚した.集中治療医への誘いを振り切って、その学問を中心とした医療を将来にわたって展開すべく、精神病理学で名を馳せている大学病院で後期研修を始めた.だが思ったよりも全然そんなことは無かった.案の定、雑巾みたいに搾られて私は壊れた.どう壊れたのかは「告白」に詳しい.

 それから幾星霜、私に家族ができたことは救いであった.博覧強記の妻は勿論、今月で三年目を迎える我が家のエース、クサガメの「吾郎ちゃん」、ちょっと危なっかしい「三郎」こと「おサブ」などなど.種を超えて愉快な家族が増えた.なお、過去の記事でで紹介したカメの卵は残念ながら無精卵であった.


 今に至るまで本当に苦しい思いを続けてきた.何度死のうと思ったか.苦しいことは決して美化されない.良い思い出になることもない.辛いことは辛いままだ.こんなことを日頃から言っているわけではないことを断っておこう.私にとってこのブログは便所の落書きに等しい.ただその落書きはとても大切なものなだけだ.

 良いことはあった.次第に私が仰ぐ空に色彩がついて来るのを感じた.これも寒い冬の日だった.大きく息をすると冷たい空気が肺臓に染み渡る.Monotonousな風景に清濁併せて様々な空気が描き込まれていく.再生を感じるのは思いがけないときだ.「精神」の語源である希語プシュケー「Ψυχή」は本来「息吹」なのだ.ようやく「精神」が再起動していくような体験.かのポール・ヴァレリーも「カイエ」で「精神とは作業である」と記した.全くその通りだと思った.妻が思い出させてくれたのだ.植物に水をやったり、事務所の水槽の水換えをして、二頭の甲羅を磨く.嫌がられて爪で引き裂かれることもある.時折脱走を企てる様子を微笑ましく思う.簡単な料理から難しいものまで挑む.たまには気持ちの良い散歩をする.ひたすら本を読む.アラビア語を毎週勉強する.知識を得ることがこんなにも気分の良いものだとは!精神科で作業療法を勧めるのはまさしく「精神が作業である」からに違いない.私たちは作業を通じて自ら「息吹」を取り戻しつつある.

 いつしかとある春に「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」が放映されたと聞いた.「ふ〜ん、ついにできたんだネ」と思ったものだが、「Q」からおよそ10年!よくもまぁ作り上げたものだと関心していると、次々流れてくる批評が存外好評であった.「本当だろうか……」それでも私は鬱々とした「エヴァの呪い」から抜け出せず、観ることもなかった.

 あくる日に動画サイトの音楽動画をBGM代わりにして「作業」をしていると、私はスタジオカラー(上記映画の製作事務所)がプロモーションのために3分弱の動画を流していることに気づいた.なんと「レイ」があのタイトなプラグインスーツを着たまま田植え「作業」をしているではないか.は?これはどうもおかしい.色々とおかしい.そもそも14歳の思春期心性にある多感な男女を戦闘機に乗せて人外と戦わせる発想も「いとあはれ」だが、今回は「おかしい」の次元が違う.これは「あなをかし」の方だ.

(綾波レイないしアヤナミレイ(仮称)をご存じない方は自分で調べてください)

 というわけで私は早速観てみることにした.なるほど「序」「破」「Q」からさらに映像技術が向上している.相変わらず世界観は混沌としている、作中の中盤から例のシーンが登場した.自我発現の乏しいあのレイが他人の子守をする場面も出てきている.「これは作者にようやく何かが起きたのだろう」と私は直感した.総監督である彼に何が起きたのかについては、報道の知るところであろう.戦略兵器がメカメカしく動く描写ばかりに長けていた彼が、赤ん坊のあどけない表情を描くようになるのは相当の心的変化を要するように思うし、とあるキーパーソンの助言がなければできないことであろう.ベタな表現で大変恐縮だが作中の人々が「当たり前に人間らしく」微笑ましく交流を行う様子は旧劇・新劇にもほとんど観られなかった場面であると感じたのだ(なかったわけでない.しかし多くが悲劇的な結末に帰着した).

 「当たり前に人間らしく」を「自然な自明性」で置き換えてみると、世界との関わりの変化、時熟の変化、自我構成の変化、間主観的構成の変化という現象に換言できる気がしている.この変化は作中の人物において顕著に現れているように思う.過去作と比べて周囲の人物はとても受容的で、妙に「オトナ」の対応をしている.「みんながこんなに優しいなんて!」という碇シンジのセリフが印象的である.

 ということは作者自身にも変化が生じていると思うのは想像に難くない.あまりにもわかり易すぎるほどに!「自然な自明性」という用語はもちろんブランケンブルクの受け売りである.以下に作者の配偶者である安野モヨコの作品「監督不行届」に寄せられた庵野秀明のコメントを紹介したい.

嫁さんのマンガのすごいところは、マンガを現実からの避難場所にしていないとこなんですよ.今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです.マニアな人ほど、そっちに入り込みすぎて一体化してしまい、それ以外のものを認めなくなってしまう.嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者にエネルギーが残るようなマンガなんですね.読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて来るマンガなんですよ.現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです.嫁さん本人がそういう生き方をしているから描けるんでしょうね.「エヴァ」で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです.衝撃でした.


「監督不行届」巻末インタビュー 2002−2004年


 ここからは彼にできなかったことが「最後にできた」であろうことを予測させる.「シン」の作中の人物が成熟した対応をしていることはいわば「オトナ」になることであり、ラカン的には「父の名」の獲得っぽいところでもある.「序・破」から「Q」への時間的断続が最終的に解消されることは「エヴァの呪い」が解けることでもあり、「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」というセリフが明示するのは、「シン」でエヴァシリーズが完全に結することでもあるだろう.一応私なりにネタばらしを避けた言い方をしているのでちょっとわかりにくくしている.しかしまぁ、エヴァンゲリオンシリーズは非常にわざとらしいくらいに根幹のストーリーラインがわかりやすいことに結局気づく.もちろん作中には「ロンギヌスの槍」や「ネブカドネザルの鍵」、「円環の理」、「マイナス宇宙」などなど(いわば厨二病的)象徴的な用語が出現し、一切の注釈を削ぐため私達を撹乱する.持論をいわせてもらえればこんなものは枝葉末節に過ぎない.何もかも理解する必要はない.もし作品を「序」から「シン」まで観ようと思うのなら、最善なるは私達は黙って顛末までを観ることだ.毀誉褒貶の批判をするのであればそれからだ.

 作中の多くの人物は「対象喪失」の病理を抱えているように思う.それは時として複雑化しなかなか抜け出せずにいて苦しむ様子が見て取れる.重要人物「碇ゲンドウ」は特に非常に苦しんでいることが生々しく描かれる.「投影」という防衛機制がどんな人物にも及んでおり、それが時として周囲のみならず世界そのものを揺るがすことが描かれている.フィクションの良いところは現実では起こせない現象をいとも容易く生じさせられる飛び道具感にある.作品は荒唐無稽な描写を駆使してわかりやすい筋書きをうまく抑制しているのではないか.「昼時に不味そうなハズレの寿司屋に入ったと思ったら、実は税込み900円くらいの旨くてリーズナブルな海鮮生ちらし寿司を食べた」というのはそういうことだ.

 「喪失」を経験する彼らがそれをどのように向き合うのかは作品の醍醐味であり、基本的にはどれも切ない.映画の中では多くの比喩表現が使われるわけだが、主要登場人物がかけがえのない人を失ってから大きな転機を迎えるのはいずれも他者を介しての作業であることに共通するのだと後に気づいた.わざとらしい表現かもしれない.しかし私の少ない語彙で表現するとすれば、「喪の作業」というのは独りではできないであろうことを示唆する.

 以上、私は2時間半くらいの作品を自分の近年の体験に重ねて観ることとなった.喪失から再生への模索という点ではとても実直な筋書きで、「いやはやフツーの映画やんけ」という感慨に至った.ものすごく上から目線の失礼な物言いとなり申し訳ないが、旧劇から新劇に至る作風は徹底してカタストロフ的で、ある種境界例のような激しさと虚しさに満ちていた.極めて不安定な様子が通底していたものが、最終作でフツーなものとなるのは私にとって望外の結果となった.フツーをフツーたらしめるものは「自然な自明性」においてもはや先に述べた通りだ.だがフツーの作品にすることはきっときっと想像を超える大変難しい作業に違いない.人によっては「陳腐な結果」と評されるだろう.まぁそれはそれで良いのではなかろうか.私の意見としては、作者は最終作でしっかりとエヴァンゲリオンシリーズにとどめをさせたということが最も意義深いように思っている.最後の最後でこの作品は現実に還ることができている点で、彼にできなかったことがやはり「最後にできた」のだろうなと思う.

 私は万人にこれを観ろと言う気は全くしない.誰にでもおすすめはできない.しかしもしも観る気になるのであれば全部観るのが良いだろうとだけ申し上げておきたい.おそらく8時間くらいはかかる.今回はただ私が最近映画を観たという事実を伝えたに過ぎない.

 最後に一応私なりの後の楽しみ方を紹介しておこう.この映画にはなんとアラビア語の字幕がついている!他の主要言語でも字幕や吹き替えがあることは大変目覚ましい.貴重な教材としてゆっくりと字幕を拾いながら、私のお勉強のおかず/おやつに役立てたいと思う今日このごろである.「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」にある𝄇(ダ・カーポ)を私なりに解釈するとそういうことになりそうだ.

いつもありがとうございます.

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