ナイフはどこまで落ちるか(2)
不況期に関する米国の論評の中では、景気の悪かった時代として1970年代を取り上げる例が散見されます。1970年代を私は生きていないので何ともいえないですが、スタグフレーションが続き、ベトナム戦争があり、踏んだり蹴ったりの経済環境だったと、多くの文献に述べられています。
私が経済学にそもそも興味を持ったきっかけの本は、高校3年の夏休みにヤーギン・スタニストローの市場対国家が図書館に置いてあったことでした。
統制経済と自由主義経済の比較論がずっと続く同著ですが、暗い時代を経て、レーガノミクスやサッチャリズムが台頭していくわけです。その文脈で70年代がフィーチャーされる点で、よっぽどだったんだろうなと感じています。ちなみにこの時期は、例えば映画でいえばエクソシスト(苦手)であったり、グラムロックであったり、ヒッピーであったりと、一種の境界線を越える文化が台頭する時期でもあります。
ということで、今回の結論は、落ちてるナイフの行先は70年代でした、、、2020年代は(も?)新しいタイプ音楽と大麻が流行ります。
という結論にするわけでもないので本題に入りたいと思います。
「今回は例外じゃないよおじさん」こと、ロゴフ教授が3月8日に「あの70年代ぽさ」というエッセイをProject Syndicateに出されています。
同教授の最初の指摘点は中国経済です。これまでにすでに負債を積み上げ過ぎた同国の経済構造は、今後の著しい成長鈍化につながるとしています。既存の多くの財政刺激策の後の効果としてこれらが重しになるとのこと。
個人的に、中国のその感じを一番理解できるのは予定人口の2%しか入居しなかったとされる中国版パリの情景だったりします。
教授の論考に戻ります。二つ目の指摘は、供給サイド(生産側)のショックが、これまでの2回の危機で中心だった需要サイド(消費側)のショックに加わっている点です。グローバルなモノの移動であったり、そもそも職場に行くことができないことの効果は、経済に対してこれまでにない影響を与えます。エッセイにも記載の通り、また、日本ではあまり意識されないことですが、様々な国々は、お互いの国の衛生環境を信頼していません。よって、人の移動の制限はひょっとすると日本と一部の国しか違和感を感じない、多くの人にとっては割と普遍的な状況となる可能性があります。
このような状況で課題となるのは、多くの国における景気刺激策は需要サイドのショックを想定したものとなっていて、供給サイドの問題の経験があるわけでもありません。経済は連関していますから、一部の困っている所を直しても、何らかのボトルネックで生産がストップすれば、経済活動は低迷します。物資の不測は、最終的にはコストプッシュインフレになる可能性も秘めています。そのようなインフレが世界的に40年間続いた低インフレの時代の後に発生すれば、低い金利を前提としてきた金融政策や財政政策には大きな課題が生まれることとなります。
イタリア・日本・ドイツ(並べ方にちょっと邪な気持ちを覚える)の各国はすでに景気低迷局面に入っていた中で、それを逆に甘受する方向にも理由があったとしています。個人的にも慧眼だと感じたのは、過去に世界はより貧しく、病気くらいで経済を止めるわけにはいかなかった一方で、豊かな現代では、仕事よりも公衆衛生を優先するフェーズになったという点です。武漢市こそ特徴的で、市を長期間ロックアウトしたとしても、住民に食料と水を届け続けられているような状況は、昔の新興国では取れない選択肢でした。
社会が「ガンガンいこうぜ」ではなく「いのちだいじに」を選べるようになったことは、経済が富裕化した恩恵かもしれませんが、財政の観点からショックをより増幅する可能性がある、というのがエッセイの趣旨といえます。また、供給サイドの緩和策とは何かを、もっと研究する必要があるのだろうなとも思いました。
長期金利が足元で上昇傾向にある中、この対応が重なると債務危機がいずれ生まれうることには、私たちはトップティアの債務残高を抱える国としてセンシティブにとらえる必要があるものと思います。
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