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本音を言えない自分の脆さ

突然だが、私は本音で話ができる友達が少ない。
というか、「本音を語ってもいい」と認定する人が少ないからこそそんな友達が少ないと勝手に思っている。

この弊害によって時々生きづらくなることがある。その場所に居たくない、って感じ。

だからこそ文章で本音を語れる本noteで、今一度このもどかしい現象を分析してみようと思う。それが私の成長につながるし、今後の人生を謳歌するために必要だと思うから。

色々理由を考えてみた結果、主な原因は以下の5つに分類されると思う。

①他人を信じていない(人間不信)
②自分の意志と周囲の民意に差がある
③相手や関わる人の雰囲気を壊したくない(他者優先)
④自分が傷つきたくない
⑤自己肯定感の違い

①他人を信じていない(人間不信)

私は基本的に他人を信じていない。その中でも特に言動に関して。
言葉はどんな無理難題でも発することができる。そして、それを多くの人に届けることができる。
よくある典型例が「行けたら行く」とか。ほとんどの人はその裏返しで「行けない」「行きたくない」といった本音が隠されている。

この本音と建前の乖離の頻度、規模が最も多く大きいのが言葉だと思っている。これを察したり考えるのが面倒くさいし分からない。鈍感なだけかもしれないし、実際に私も「行けたら行く」はやらないがほかの言葉で建前で行ってしまうこともあったりする。だからこれは避けて通れないのだろう。

だから私は避けて通れない道を「そもそも進まない」選択肢を取っている。

そもそも他人を信用しない。依存しない。どうせ思っていたことと違って自分の気持ちを裏切られるから。だったら最初から信じない、と。


②自分の意志と周囲の民意に差がある

私は他者と話すとき、つくづく「自分って変わった価値観持ってるなあ」と感じる。価値観の違いがあるのは当たり前のことだし、それは受け入れているが他者が受け入れてくれないことが多い。

よくあるのが「数人でどっか出かけるときにどこに行くか問題」。行きたいところをピックアップしたり他のメンバーが興味を持ちそうなところを考えるのだが、結局全然違うところになったり却下されたり。

他にも飲み会で盛り上げ役に徹したつもりなのに後で「しゃばい」とか陰口を言われていることとか。もともと他者を信じていないのでそんな配慮も「自分がやりたいと思ったからやっている」だけで、特別そんなリターンを求めていないのでほっとけばいいにせよ、ちょっとした自分なりの配慮を打ち砕かれると気分はマイナスになってしまう。


③相手や関わる人の雰囲気を壊したくない(他者優先)


私の中では「他者はみな平等」だと思っていて、年齢も役職も権力もあくまでも肩書きだけで関係ないと思っている。だからこそみんなが調和して楽しい空間を作りたいだけなのに、現実問題ではそうはいかない。

学校社会で何度も何度も見てきた目に見えない「カースト制度」。陽キャが権力を握り、陰キャが静かになっているあの環境。
自分の価値観と違うなあと思い、発言すると民意が邪魔をして今度は私が不幸になる。それだけは避けたいと思い、本音を言わない。。。

社会に出てもそれは消えないことを実感したし、日本社会で生きていく以上は一生付き合っていくんだなとも思っている。
海外に行くとそんな呪縛がないから本音に忠実で楽なんだよなあとも思ったり。
そんな思いを感じた旅行記を載せておきます▼

話を戻して②にも関わると思うが、この価値観の乖離(特に他者優先に関して)が今こうやって文章を書いていることに繋がるんだろうなと思う。
「もともと他者を信じていないお前が悪い」という意見もあると思うが、ごもっとも。でも、私の価値観もごもっとも。そもそも正解なんて無いし、いい塩梅を見つけるものだし、いい塩梅になった人と関わるべきだと思う。それが「相性」ってやつ。


④自分が傷つきたくない

「なんで自分が傷つかないといけないのか」という謎のプライドがある。
人生なんて一度きりだし、時間は一瞬で過ぎ去っていくのでその瞬間瞬間を楽しくいたい。
目標達成のために努力しないといけないフェーズでは努力したいし、遊びたいときは遊んで楽しい感情を享受したい。

気分がマイナスになる時間をなるべく減らしたい。
だから、自分が傷つかない行動をとる。(対人関係において)

だから本音を言えない。本音を言って、信じていないけどこれから関わる身近な人から罰声を浴びたら気分が落ち込むから。

だから一人で考えてあれこれと行動すること"は"好き。


⑤自己肯定感の違い

多分だけど、世間一般と比較したときには私の自己肯定感は低い。けど自己評価は高いと思う。自己中。

この主観と客観の差がコミュニケーションにも多少影響している気がして。

ここまで長々と綴ってきたが、総じて私は自己中なのでやりたいと思ったことはやりたくなるし、マイナスな出来事はすぐ忘れようとする。でも自分一人では生きていけないのが人間であり、「全ての悩みは人間関係から」とアドラーが言うように人間関係が必要なのにそのせいで悩んだり気分が落ち込むという矛盾した環境に放り出されている。

すなわち、人間関係は必要。
この時、自己肯定感の感受の違いが私を苦しめる時がある気がして。

自己肯定感が高い人って何事もポジティブで、他人に迷惑をかけるとか他者がどう思うとかをいい意味で気にしない。半分うらやましいけど、それはどうなんだ?って思う時もある。

一方で私は周囲との協調性を重視し全員が平等だと思っているタイプなので、周囲を監視する。
気分が落ち込んでいそうな人がいたら声をかけたくなるしかける時もあるし、逆に浮いていたり他人を批判する人は大嫌い。愚痴を言う人ってたくさんいるけど、自分の中で抑え込むことくらいできないのか?と毎回思う。いや愚痴って周囲の雰囲気をマイナスにするやんって。そして、そんな全員がポジティブで楽しい環境で自分も楽しむ。何ともENFJぽい。

だから私は誰の愚痴も言わないと決めている「そういう人もいるんだ」って思うようにしてる。自分に害がある場合はそっと離れる。喧嘩はしない。喧嘩って価値観の押し付けだから。喧嘩じゃなくて話し合いができる人と深い関係になりたい。

でも周囲から見ると自己肯定感が低い部類に入ると思うので、自分の発言や言動で迷惑かけたらどうしようと思ってしまうことが多い。自分の中では「絶対こうでしょ!」っていう意思はあるのに。

このもともと置かれている環境の矛盾と自身の感情の矛盾が客観的に見たときの自己肯定感の低さに関与している気がして。


総じて不器用

ここまで思ったことを殴り書きにしながら自己分析をしてみたけど、総じて言えるのは不器用だということ。

多分解決策として最も有効なのは「人間関係において何も考えず素のまま関わること」だと思っているが、それでは成長もないしつまらない。

そもそも、私はすべての行動に意味を持たせたい。その意味を感じることが幸せだと感じるから。

何気なくボーっとしている期間も「いざという時にアクセルを踏めるようにしておく充電期間」と名付けたり、友達との遊びやコミュニケーションも「違う価値観や考え方を知る機会」としていたり。

他者の価値観は知りたいのに自分の価値観は押し付けずに心に秘めておく、そんなコミュニケーションの取り方をするのでやっぱり自己中。


今まで散々マイナスと思われるような本音を書いてきたが、気の合う友達もたくさんいる。
一緒にいて変に気を遣わなくてよくて、素のまま話せる人。

こんな自己中な私を友達と認めてくれて、仲良くしてくれる人。

トイレに行くタイミング、お腹が減るタイミング、会話のスピードと内容、何か波長が合うんだよな、という人。

そんな友達はより大切にしたいし、仲良くしていきたい

そんな人たちが私の人生を豊かにしてくれる。

大学4年にもなって、そんな人と過ごせる時間が楽しくて仕方ない。

そして「波長の合う人」に出会うには、いろいろな人とコミュニケーションを深めていく以外に方法はない。

なのでこれからはもっといろいろな人と話して、コミュニケーションをとって「こういう人もいるんだ」と違う価値観を受け入れながら、気の合う友達を探していこうと思う。そして、気の合う友達とは楽しい時間を共に享受出来たら私の人生はもっともっと豊かになるはず。


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途中から何書いているのか分からなくなってきたから文章構成力まだまだなんだなってひしひしと感じる日曜日の夜。

やりたいこと何でもやれる今の時期が楽しくて仕方ない。
CS見たいからってお金ないのに数日前に飛行機取って弾丸で福岡行き、その日の朝帰ってきてそのままバイト1日中2連勤する人いる?(うまくやりくりしたので3日間の総出費は1万円かからず)

他人と比較したくないけど行って良かったし行かなかったら多分私の人生つまらない。


「大学生活を好きなこと、興味のあることに全力で取り組む」
入学当初に決めた4年間のテーマを実行している瞬間がたまらなく好き。


明日試合なのに、朝早いのについに契約してしまったU-NEXTでニューカッスルvsブライトンを流し見しながら考えてみた。デュエル激しすぎおもろすぎる。早く寝よ。

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