境界を溶かした先に
羊の放牧地の手入れ
週末、散歩ついでに羊たちの放牧地に立ち寄ったら、冬の初めに刈った草が、そのままになっている。そうだった!そして春の草がちょこちょこと顔をだしてきていることに気づいて、急遽作業開始。
このままでも、冬の草は土に還るんだろうけど、春の草にどんどん伸びてほしいから、少し手をかける。草刈機だと、どうしても固まってしまうから、ちらしたり、柵の外に出したり。
固まって山になったまま放置してあった草は、少しめくるともう既に白い菌糸に覆われていたりする。
生きていた草、生きている菌。土に還ってく草、生きている土。
なんだかふと、生きていると生きていないの境界が、わからない感覚に陥る。
そう言えば、外仕事ってそういうこと、時々起きるかもしれない。
いろんなことが繋がって、ぐるぐるして、境目がわからなくなる。
それが心地よい。
旅に出たい理由
去年の暮れ、私はあるきっかけで、旅に出たいなぁ!って思った。でも、現実的ないろんな理由で、今じゃないかも、って気持ちになって。
じゃあ、諦めるんじゃなくて、旅に出たい要素を大切にして、ここで旅に出よう、そういうことにした。
私はなぜ、旅に出たい?
今の私の世界の外に出たい。
今の私の中にないものに出会いたい。
それならと、私は旅で出会いたかった文化の、本を読んでみる。
それは、時空を越える旅。わくわくする時間……なんだけど、文字を通して頭で知るのは、わくわくもするけど、やっぱりなにか物足りない。違うんだ、私は身体で感じたい!
境界を溶かす
そんな中の、初めに書いた放牧地の手入れの時間。
あぁ、そうか!
私は、私が決めた境界を飛び越えたいんだ!
私は、思い返せば、たくさんの線を引いてきた。
自分だと思ってるものと他者だと思っている存在の間に。
それは、私が強いから、立派だから、ひとりで生きられると思ったわけでは全然なくて。
たぶん、そうするしか守れないものがあったのかな、という気がする。
そこから、たくさんの人のおかげで、あれ?これでいいのか?っていくらかは見直してこられたのかもしれないけど。まだまだ、私はたくさんの線を感じている。
それでも、こんな風に身体が勝手に境界を曖昧に感じ始める瞬間があって、私はそんな時が、とても好き。
境界を越えようとする時、そこに境界があるんだって認識している。だけど、こんな風に自然に溶かしていけたら、そこからどんなことが起こるだろう。
生きていると生きていないの境界
人と動物の
人間と「自然」の
好きと嫌いの
わたしとあなたの
わかるとわからないの境界
こんなことを思うのは、私が境界があると思って、そしてそれをくっきりと感じているからなのかもしれないなぁ。
もともと、境界がふわふわと柔らかい人に憧れや羨ましさを感じるけれど、きっと、くっきりとした境界を、溶かせたからこその、喜びと大切さもあるんだろう、とも思う。
別の存在であるという認識と、同時に元は繋がっているという感覚。
そんなことを思う、放牧地の手入れの時間。
手入れも、うまくやりたいけどできてなくて、正解も不正解もないけど、もっとよくできるんじゃないかと思う、私の中のごちゃごちゃも、ぜーんぶ飲み込んで、放牧地も、なん巡り目かの春になります。