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古典に学ぶ意味 (自己紹介を兼ねて)

「制限をはずして何かを書いてみたい」
ふと、そんな考えが浮かんでnoteに登録してみた。

かれこれ12年ほど、P.F.ドラッカーの著作から学んでいる。いつしか読書会ファシリテーターとしての活動は400回近くを数えるまでになり、講師として、経営コンサルタントとして、マネジメントを伝える立場になった。

専門家になってしまうと、自分にとっては普通の話が、相手の理解を簡単に超えていく。相手が理解できるよう、できるだけ簡単に、平易な言葉で、わかりやすくを心がけているうちに、気がついたら自分の考えを素直に表現できる場がどこにも無い状況になってしまった。

一般には「マネジメントの父」として憶えられているP.F.ドラッカーだが、ご本人は生前ご自身のことを「社会生態学者」と称していた。ドラッカーの書き残した40冊近い著作のうち約半分は社会に関わる著作であり、そこに記された内容は驚くほど現在私たちが直面している課題を言い当てている。

大事なことは、ドラッカーが書き残した言葉そのものではなく、ドラッカーが社会を観るために使っていたフレームを、今を生きるわれわれ自身が活用することだと思っている。書き残された著作は古くなっていくが、社会を観るためのフレームは時代を超えても変わらない。

私が書きたい「考え」とは、要するに「ドラッカーの社会を観るフレーム」を使って、いま私に見えている景色についてのもろもろのことを指すのだと思う。(実は本人にも、それが何かはまだ分かっていない  笑)

これから先、社会の根本からの変化が始まっていく。コロナ禍やウクライナでの戦争も驚いたが、少なくとももう1つや2つは、社会の底が抜けたように感じる出来事が起こっていくんじゃないかと考えている。

その都度、私を含め現代社会に生きる人々にとっては「文明社会の終わり」と感じられるような事かもしれない。しかし人類は、歴史上何度もそのような「文明社会の終わり」を乗り越えて、今ここにある。古典に学ぶ意味とは、このような2~300年サイクルで繰り返し起こる出来事に備えることにあるのではないだろうか。

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