【解説】2024年度ベネッセ総合学力テスト高2・11月(歴史総合)
使用教科書
・(歴総)『歴史総合 近代から現代へ 707』山川出版社、2022年
・(タぺ)『最新世界史図説 タペストリー 二十二訂版』帝国書院、2023年
・(新詳)『新詳日本史』浜島書店、2024年
・(日探)『詳説日本史 日本史探究 705』山川出版社、2023年
・(世探)『詳説世界史 世界史探究 704』山川出版社、2023年
大問1
問1
アメリカ大陸横断鉄道とスエズ運河が開通したのは1869年で同じ年。
<アメリカ横断鉄道について>
教科書では横断鉄道がいつ開通したのかが分かりにくい。(歴総)p53右上地図、(タぺ)p206年表
🌎世界史探究の人は、1861~65年南北戦争の後に横断鉄道が完成したことをきちんと理解しておくこと。
<スエズ運河について>
運河建設とその後の所有・管理者は違うので注意!!
1869年:フランス人技師レセップスによるスエズ運河完成。(タぺ)p223
↓
財政難…イギリスが運河を買収(1875年)。イギリスがエジプトを支配。
↑
エジプト人たちがイギリスの支配に抵抗。
1881~82年:ウラービーの反乱。
ここで(歴総)p56左上史料をチェック!!
この『佳人之奇遇』(東海散士)は1885年に発行された。(歴総)p76、p77にあるように、日本で自由民権運動が活発になっていた時期で、自由民権論や国権論などの宣伝を目的とした政治小説である。(日探)p290
この文章から、ウラービーも国会の開設や外国からの独立の必要性を訴えていることが分かり、日本の自由民権運動が求めていた内容と共通する部分を読み取ることができる。
ちなみに日本の国会開設に関して重要なのは
1889年:大日本帝国憲法発布…オスマン帝国に次いでアジアで2番目の憲法制定。(歴総)p56
1890年:第1回衆議院議員総選挙実施。国会召集。
また、1871年に出港した岩倉使節団は、開通したばかりのスエズ運河を通って帰国している。
1875年:イギリスによるスエズ運河買収、エジプト支配の後はどうなったかと言うと、
↓ 第一次世界大戦
1922年:エジプト独立。
↓ 第二次世界大戦
1956年:エジプトのナセル大統領が運河の国有化を宣言。
これに反発したイギリス・フランスが起こしたのが
1956~57年:スエズ戦争(第2次中東戦争)。(歴総)p188
現在に至る欧米に対するアラブ反発の一角のことなので、是非理解しておいてほしいです。
<パナマ運河について>
1914年に開通。(歴総)p87、(タぺ)p221
今回の問題にもあるように「世界の一体化」という側面での理解も大事だが、教科書の風刺画が表すように、「アメリカによる帝国主義」という側面でも理解しておきたい。
また、この「1914年」は何が起こった年?
↓
第一次世界大戦。
<「鉄血政策」を唱える首相の下でオーストリアと交戦>
これはプロイセンの首相ビスマルクによるプロイセン=オーストリア戦争のこと。(歴総)p49
1866年:プロイセン=オーストリア(普墺)戦争で勝利。
↓
北ドイツ連邦成立。
1870年:プロイセン=フランス(普仏)戦争で勝利。
↓
ドイツ帝国成立。ヴィルヘルム1世がフランスのヴェルサイユ宮殿で即位。
ドイツは長年、隣国フランスと対立していたため、ドイツの勝利と帝国の誕生を内外に知らせるためにヴェルサイユ宮殿で戴冠式を行ったが、この屈辱が、この後の第一次世界大戦後におけるフランスによる苛烈な対ドイツ処理へと繋がっていく。
Q.フランス革命とドイツ帝国成立はどちらが早いか?
A.100%フランス革命のほうが先!!!
年号を覚えていたら当然楽勝なんですが、きちんと時系列で理解しておくと
、他の出来事についても整理が進みます。
フランス革命(1789~99年)で「自由主義」や「ナショナリズム」がヨーロッパ各地へ輸出され、各地で独立運動が起きた。(歴総)p43~p45
その新しい潮流を潰そうとするのが、ナポレオン戦争後の国際秩序であるウィーン体制。
そんな圧力に我慢ならず、自由主義・ナショナリズムが爆発して起こったのが1848年革命。世界史探究の人は(歴総)p45右上の地図で、どこで何が起きたかも押さえておくこと。
この革命の後で超大事なのは、長年分裂状態だったイタリアとドイツがついに統一されたこと!!
ドイツ(歴総)p49、(タぺ)p201
1848年:フランクフルト国民議会が憲法案を作るも挫折
1866年:プロイセン=オーストリア戦争
1870年:プロイセン=フランス戦争
1871年:ドイツ統一
イタリア(歴総)p49、(タぺ)p200
サルデーニャ国王のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と首相カヴールが頑張り、そこにガリバルディが南から頑張ってイタリア統一(1870年)。
<イギリスと共に第2次アヘン戦争(アロー戦争)で清と交戦>
これは1856年にナポレオン3世による第二帝政期であったフランスが起こしたもの。(歴総)p48
ここで超大事なのは、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて清が列強と結んだ条約について、きちんと区別して理解できるか。(歴総)p59、p60(タぺ)p229
1840年:アヘン戦争
1842年:南京条約
1856年:アロー戦争
1860年:北京条約 + アイグン条約(1858年)
何の戦争で結ばれた?
誰と?
どんな内容?
それぞれの条約を3点セットで理解して、他と区別しよう。
単に内容を覚えようとしてもしんどい。きちんと前後の時代の様子を理解できれば、それぞれの大枠の違いを簡単に区別できる。
南京条約
・ずっと鎖国していた清をなんとか開港させたので、開いた港の数は少ない(日米和親条約と一緒)。(歴総)p63
・清から「野蛮」と見ていた欧米人に開く港なので、すべて都・北京から遠い。
・外国船とやり取りを始めるわけだから、そのための窓口=領事の駐在が許される(日米和親条約と一緒)。
北京条約
・外国との二度目の敗戦なので、開港数も多くなる。
・しかも今回は一度結びかけた天津条約を清が拒否してからの再戦&敗戦なので、英仏の要求がエスカレート。すなわち、「野蛮」な外国人の公使が都・北京に駐在したり中国国内を自由に移動できたり、キリスト教布教の自由が許されたり。
北京議定書
・発端の義和団事件によって各国公使が危険にさらされたため、責任者の処罰を要求。
・清が公使保護の義務を怠ったため、北京に各国軍隊を駐屯。
<内戦の最中に、奴隷解放宣言が出された>
「奴隷解放宣言」が出てきたら「リンカン」「南北戦争」がセットで出てきてほしい。(歴総)p54の演説シーンも有名。
先に出てきた大陸横断鉄道(1869年)の前である1861~65年という年号も頭に入っていると、19世紀アメリカ史を縦軸で理解するのに役立つ。
また、教科書の問いかけにあるように、
Q.同時期に国内体制の再編に成功した国は何か?
19世紀後半の横軸の理解が試される。
A.1868年:明治維新
1870年:イタリア統一
1871年:ドイツ統一
問2
まず、冒頭の資料1「アメリカ合衆国国務長官ダニエル=ウェブスターの談話」から読み解ける、日本開国の理由は何か?
アメリカ大統領はカリフォルニアから中国への太平洋横断航路を早期に開設すべきと言っている。
中国航路開設のために、日本で石炭を供給できるようにしたい。
その理由を理解した上で、各選択肢を検証していく。
<アメリカ合衆国の船が利用する石炭陵における日本産石炭量比率の推移のグラフ>
資料1から、このグラフがあれば、アメリカが実際に日本からの石炭供給をいつから受けるようになったかを確認できる。
<日本の官営鉄道と民営鉄道の営業キロ数を比較したグラフ>
資料1では、日本の鉄道をどうにかしたいとは言っていない。
ただ、🗾日本史探究の人は、(日探)p283のグラフで、日露戦争後の鉄道国有法(1906年)で官営鉄道と民営鉄道の営業キロ数が逆転したことは理解しておく。
<日本の位置が北米と中国を結ぶ航路上にあることが分かる地図>
資料1でアメリカの目的が中国との貿易であったため、アメリカから中国への太平洋横断航路をイメージできるとよい。そのためには、カリフォルニアが西海岸にあることをきちんと理解していないといけない。(歴総)p53、p63
<アメリカ合衆国が海外で保有する植民地の位置を示した地図>
(歴総)p92の地図にあるように、その後の列強による中国分割にアメリカは参加できなかったことを理解しておく。アメリカにとってのアジア拠点はフィリピンだけ。
↓
だから、第二次世界大戦期に日本が南部仏印進駐を行ったことに対して、フィリピン権益が危ないと思ったアメリカがブチ切れた。(歴総)p148
問3
ここのリード文で大事なのは「日本が開国するまでの」ということ。
内容が正しくても、その時期が日本の開国(1854年)以後では「誤」となる。
aの文もbの文も、アジア史というくくりで時系列の整理ができているか試される。
<南下政策を進めるロシアは、樺太を自国の領土にした>
日露国境線の歴史的変遷は、現代の北方領土問題に繋がってくるのでハイパー超大事!!!(歴総)p72
特に(新詳)p221、(タぺ)p232には分かりやすくまとめられているので、🗾日本史探究の人だけじゃなく🌎世界史探究の人もよく理解しておいてほしい。
1854年:日露和親条約…樺太は日露両国人雑居の地。
1875年:樺太・千島交換条約…千島列島を日本に、樺太をロシアに。
1905年:ポーツマス条約…日露戦争勝利により、樺太南半が日本領に。
1951年:サンフランシスコ平和条約…千島列島と樺太南半を日本は放棄したが、ソ連(当時)が条約調印を拒否したため、日本政府は同地を帰属未確定地としている。
<イギリスは上海や香港などを拠点として、清との交易を開始していた>
問1でも言及した「19世紀半ばからの中国締結の条約」を理解できているか試される。(歴総)p60、(タぺ)p229
また、南京条約でどこがイギリスに割譲され、開港された5港はどこなのかも名前・位置ともに理解しておきたい。
1825年:異国船打払令
1837年:モリソン号事件(日探)p209、(新詳)p209
1840年~:アヘン戦争
1842年:南京条約
1842年:天保の薪水給与令(歴総)p62
↑
また、アヘン戦争と南京条約の内容はアジアにおける大ニュースであった。
清の大敗に衝撃を受けた江戸幕府はすぐさま薪水給与令を出して、戦争の要因になりかねない外国船とのトラブルを防ごうとした。
問4
<資料2は日清戦争前、資料3は日清戦争後、どちらも明治維新を肯定的>
この時期、日本に関連する出来事が10年おきに発生しているので時系列を整理しやすい。
1884年:清仏戦争、甲申事変(歴総)p78
1894年:日清戦争
1904年:日露戦争
1914年:第一次世界大戦
資料2・資料3が明治維新を肯定的に捉えていると理解できるかは読解力による。
資料2「立派な政治」「諸政はまばいゆばかり」とあるので、肯定的であると分かる。
資料3にはそのような直接的な表現はないが、
①「旧套を墨守する国はみな分割・亡国の危機である」は「国政改革をしていない国はどこもヤバい状態」
②「変法に成功」「施策が理にかなっていた」は「明治維新が上手くいった」「維新の諸政策の内容も良い」
と読めるので、資料3も肯定的であることが分かる。
<「旧套を墨守する国」は20世紀初頭まで近代化を拒んだタイである>
(歴総)p58にあるようにタイでは19世紀のラーマ4世の時代から改革が行われているが、年代をきちんと理解していないとかなり迷ってしまう。
しかしそこが分からなくても、資料3には「旧套を墨守する国はみな分裂・亡国の危機」とあるのに対して、タイは東南アジアで唯一植民地を回避していた。(歴総)p58、(タぺ)p226、(日探)p220
そのため、この選択肢が「誤」であることが分かる。
ちなみに、ラーマ4世はイギリス人女性の家庭教師を招き入れており、その交流を描いた小説が『王様と私』として劇作化・映画化されている。
<資料3の「進むべき方針」は資料2よりも前に出されており、五箇条の誓文を指す>
この選択肢の文を読まなくても、「変法(=明治維新)のはじめに進むべき方針」が五箇条の誓文であることは理解できてほしい。
(歴総)p67L11~L12に「列国と立ち並び世界的に活動する国をつくるためだと説明された」とある。
このような問題で失点してしまう人は、社会科の勉強で単なる「用語の暗記」に終始してしまい、「その出来事は歴史的にどういう意味なのか?」という理解に乏しい場合が多い。
教科書の太字にマーカーを引いて赤シートで隠す勉強をしても、「教科書のあそこにあの用語があったな」という記憶はできても、社会科の成績は上がらない。
寧ろ、「教科書のスペースは限られてるのに、太字がない文章がこんなに続いてるな」という部分は超チェック!!!
重要語句がないにも関わらず、教科書スペースが限られてるにも関わらず、その文章を書かなければいけないくらい歴史的に大事な部分なんだなと受け取ろう。
また、「進むべき方針=五箇条の誓文」が出されたのは1868年であり、この年が明治維新の始まりだというのは覚えておいて損はない。
そのため、1879年に書かれた資料2よりも前に出されたものだということが分かる。
<資料3で康有為は、清の現状は外国に利権を奪われている亡国状態と述べている>
これは資料3のL2~L4を読めば、「正」と分かるはず。
康有為は、日清戦争の敗北に衝撃を受けて中国の近代化を図る変法運動の中心人物の一人である。
また、その日清戦争敗北の後、列強は「ケーキを分け合う」ように中国を各勢力圏に分割した(1898年)。(歴総)p91、p92、(タぺ)p230、p231
教科書や資料集に載っているこの時の風刺画や地図を見ると、この中国分割にアメリカが加わっていないことが分かる。
これに参加できなかったアメリカが中国進出を狙って出したのが、「門戸開放・機会均等・領土保全」の三原則である。(歴総)p87、p91
また、日露戦争以後、日本の中国権益にしつこく圧力をかけようとしたのも同じ理由である。(歴総)p94、p108、p114、p119、p140、p143、p144、p148
また、資料2「明治4年には大臣を、ヨーロッパ、アメリカの諸国に派遣した」とは岩倉使節団を指している。(歴総)p70
明治4(1871)年7月に日清修好条規締結という大仕事を形にした明治政府は、欧米の文物視察と条約改正の事前交渉を目的に、同年10月、政府首脳の半分を使節として派遣した。(新詳)p236
そして資料2「開国通商このかた、税関の輸入が、毎年、7、800万円も輸出より多い」という文に違和感を覚えた人もいるかもしれない。
(歴総)p65、(日探)p223、(新詳)p222を見ると、日米修好通商条約締結後は生糸の海外需要などにより、しばらく日本側の輸出超過であった。
しかし、1866年の改税約書で日本側の関税は引き下げられ、風雲急を告げる国内情勢に対応するため軍事輸入が増え、1867年からは輸出超過に転じた。
ここから🗾日本史探究
輸出超過による国内の品不足で物価が上昇したため、これを抑えるために幕府は1860年に五品江戸廻送令を出したが、これは貿易統制に当たるとして、自由貿易を求める列国や在郷商人らの反対で効果を上げなかった。
また、輸出超過の原因のもう一つは日本と外国との金銀比価の違いによる金貨流出である。(日探)p224、(新詳)p222
そのため、金の含有量を三分の一に減らした万延貨幣改鋳を行ったが、これは当然「貨幣価値下落」となり物価上昇に拍車をかけた。
庶民の生活は圧迫され、外国貿易に対する反感が高まり、攘夷運動激化の一因となった。
問5
資料4下線部aは「皇帝=天皇はずっと日本での権力者であったが、憲法発布によってその権力の一部を制限、もしくは他の機関に譲った」という意味になる。
<第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ>
いわゆる「神聖不可侵」と呼ばれる条項。権力者としての天皇の地位を示すものであるが、「天皇が権力を失う」ということとは関係ないので「誤」。
<第四条 天皇ハ国 ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ、此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ>
この条文で作問した時によくあるのは、「総攬」の部分を空欄にし、答えられるかを問うもの。
もちろん「天皇が国家元首であり、統治権を総攬する=一手に握る」ということは、天皇主権を謳う明治憲法と象徴天皇を規定する現代日本国憲法とを比較する際には重要である。
しかし、「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」の部分により、そんな天皇の権力も、あくまで憲法に規定されることで効果を発揮する=天皇さえも憲法に従わなければならないという立憲君主政の表明でもあるため、戦前の日本の国家体制を理解するためにも、しっかりと押さえておきたい。
<メモ3「第二十九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」>
この条文によって臣民(国民)の権利は「法律ノ範囲内」と制限をかけられているため、「国民が満足しているとは言えない」と考えられる。
この点が「国民の権利は生来のものである」とするアメリカ独立宣言やフンラス人権宣言との大きな相違点である。(タぺ)p187
そして、憲法制定までに政府は讒謗律を始めとして言論・集会の自由を取り締まってきていたため、憲法制定・国会設立後も旧民権派は国民の権利拡張を訴え続け、大正デモクラシーへと繋がっていく。
問6
<伊東さんのメモ>
戦争の風刺画を描く際、資料5のように国力の大きさを登場人物の大きさで表すことはよく行われた。
下図は日清戦争の風刺画で、背丈の低い侍=日本が巨人の中国を倒している。
<支倉さんのメモ>
この問題に対するベネッセの解説は分かりづらいので、少し丁寧に説明する。
まず、このメモの中で唯一の間違いが「1904年当時にロシアがオーストリアと同盟していた」ということである。
(歴総)p105に第一次世界大戦直前の様子、いわゆる「ヨーロッパの火薬庫=バルカン半島」について書かれている。教科書には「日露戦争の敗北によって」とあるが、すでにバルカン半島におけるスラヴ系のロシアとゲルマン系のオーストリアはそれぞれ勢力圏を拡大しようと対立していた。
このスラヴ系とゲルマン系の民族的対立が招いたのがサライェヴォ事件であり、それを火ぶたとして始まった戦争は民族対立を超えて、人類史上初めての世界大戦へと拡大してしまった。
しかし、近年、日露戦争を「第0次世界大戦」と呼称することがある。
その呼称理由には様々あるが、ここでは日露戦争の結果・影響がその後の第一次世界大戦における対立軸の大枠を形作ったという点に注目する。
(歴総)p90、(タぺ)p216
1890年~
ドイツのヴィルヘルム2世がフランス孤立作戦である「ビスマルク外交」を否定、「世界政策」と呼ばれる積極的な海外進出を始める。
1894年:露仏同盟
年号を覚える必要はないが、1890年にドイツがロシアとの再保障条約を更新しなかったため、フランスが外交的孤立から奪取できたという流れは理解してほしい。教科書に「1891~94年」と書かれているのは、この期間で段階的に同盟関係が築かれていき、1894年に軍事同盟として完成したという意味である。
1902年:日英同盟
これは年号も押さえよう。ただ、何より大事なのは日露戦争よりも前だということ。このイギリスの後ろ盾があったからこそ、日本は日露戦争において対ロシアにだけ専念できた。
1904年:英仏協商
年号を覚える必要なし。それよりも、この同盟もまた対ドイツのものであり、これまで長年対立したイギリスとフランスが歩み寄ったという点でも歴史的な意義がある。
1907年:日露協商・英露協商
これも年号はそこまで重要ではないが、どちらも日露戦争後の締結であるということは絶対に理解してほしい。
日露戦争の敗北でロシアは東アジアでの南下ができなくなった=東アジアで日本・イギリスの懸念がなくなったため、特にイギリスはロシアと対ドイツ同盟を組みやすくなった。
(歴総)P90に「イラン・アフガニスタンでの勢力圏」とあるのは、当時西アジアから中央アジアにおいて、イギリスとロシアが「グレートゲーム」と呼ばれる対立構造を形成していた。(タぺ)p205
この対立を時代背景とした中央アジア舞台の漫画として『乙嫁語り』がある。当時・現地の文化・風俗を知る上で大変興味深いので是非読んでみてほしい。
また、「清がアジアにおける主導権を失っていた」については、アヘン戦争に始まる列強との連戦連敗の知識から「正」と判断してもいいし、風刺画から「東アジアにおける韓国を巡る対立の場で、清が会場の外に置かれている」ということを読み取るのでもよい。
このような風刺画の読み解きのみで正解を問われることは本番の共通テストでも少ないと思うが、できるようになれば美術館・博物館での鑑賞が物凄く面白くなるので、興味のある人は『絵を見る技術』などを是非読んでみてほしい。
<津田さんのメモ>
ただ、絵の読み解きなどをしっかりやろうとすると、このメモの「日本の身振りが、ロシアの満洲占領を警戒していることを表現している」という箇所で無駄に迷ってしまうかもしれないので気を付けてほしい。
ここでは単に歴史的事実が「正」であれば、それでよい。上述したように、「書かれている歴史的事実は正しくて、絵の解釈が間違っている」という問題はなかなか出てこないと思う。
勿論、ベネッセの解説にあるように、ロシアの立っている場所、ロシアの足が韓国に進もうとしている所などにはしっかりと注目できるようになってほしい。
問7
この問題は非常に面白いと思ったし、正答率や誤答のバリエーションにはとても関心がある。
とは言っても、恐らく誤答の要因は大きく三つになるのではないだろうか。
① 資料6の最後の行「ところが」をちゃんと読めていなくて、空欄Sに入る文章の意味が、「ところが」以前とは逆のものが入ると分からなかった。
② 「帝国主義国家」というものの意味やその具体例がよく分からず、当時のアジアが帝国主義的列強国家の植民地支配に苦しんでいたことや、日本のアジア進出の動きが帝国主義的性格であることをこのメモと繋げられなかった。
③ 各事例が指す出来事がどのような意味を持つのかが分からなかった。 事例aのドンズー(東遊)運動や事例bの辛亥革命が資料6前半の「西洋の新産業方式の採用」や「西洋の観念と方法」の重視を指すことや、事例cの第2次・第3次日韓協約((歴総)p93)が「帝国主義国家」の振る舞いであることが分からないと正誤の判断がつかない。
「歴史総合」に限った話ではなく、新しく出てきた言葉の定義や具体例が分かっていないと、いくらその言葉自体を覚えても理解は深まらないし、成績は向上しない。
近代以降では特に「自由主義」だの「帝国主義(歴総)p85」だの「共産主義」だの、普段の会話では全然出てこないのに、歴史の教科書では理解できてる前提でやたらと出てくる抽象的な言葉が多くなってくる。
授業の中でも何度も使われることで「何となく、こういうことなんだな」と語意や具体例を理解できるようになっていればいいが、社会科が苦手な人はこういう言葉にアレルギー反応が出ていると思うので、理解をなおざりにせず、「定義」「具体例」を明確にノートに書き足し、勉強で理解に躓いた時はすぐに立ち返れるようにしよう。
また、教科書の索引を使って覚えていない言葉が教科書でどのように使われているかを確認する癖をつけよう。
問8
<Xに入る語句>
資料5は風刺画で、資料6は後に初代インド首相となるネルーの手紙である。
風刺画でも個人の手紙でも、会話文にあるように「事実を正確に伝えるわけではない」「メッセージ性が強い」「意図的に誇張や美化した表現」はありえるが、資料6のように父親から娘へという非常に個人的な手紙が「新聞や雑誌に数多く掲載される」ということはあまり考えられない。
ただ、資料6については少し例外でもある。(ここは🌎世界史探究の人も覚えてなくていいが、興味があれば読んでみてほしい。)
ベネッセの解説にもあるように、この文章はネルーがインド解放闘争参加によって投獄された中から、娘インディラに送った手紙の一部抜粋である。
その手紙は200通にもなり、後にまとめられ、『父が子に語る世界歴史』として出版されている。
そして、そのインディラも後にインドの首相に就任しており、この手紙が政治家同士のやり取りとしてのものであれば、公的な内容として当時から出版物に掲載されていたかもしれない。
しかし、この手紙はインディラが14歳の頃に出された物であり、さすがに当時から「新聞や雑誌に数多く掲載される」とは考えられない。
<Yに入る文>
資料4は新聞であり、会話文の「碑文」との共通点とすれば「不特定多数に見られること」が「正」であると言える。
「短期間に情報が伝わること」は新聞の特徴としては正しいが、碑文は時間をかけて石などに刻まれたり、幾つもの製作が難しかったりするという観点から適当ではない。
<Zに入る文>
資料4=新聞が、新聞社という私企業による発行媒体であり、それにふさわしい説明文を選ぶとすれば、「発行元の価値観や考え方が反映されている」だろう。
新聞に限らず、テレビでもSNSでも、情報媒体には何かしらのバイアス(偏り)があるものだ。
「公に発する情報に偏りがあるなんてけしからん!」と態度を硬化させるのではなく、様々な媒体に触れて、その違いを楽しむくらいの姿勢のほうが精神衛生上も情報リテラシーとしても健全であると思う。
大問2
問1
<メモ1>
「資料1から○○が読み取れる」とある中で、「本州に向けて海産物が運び出されている」というのを「正」とできるのか、ここに引っ掛かりを覚えた人はいるのではないだろうか。歴史事実としては正しいが、資料1にはその旨は書かれていない。「返り荷」の内容では、煙草(国分)・砂糖(奄美)・絹織物(博多織)以外の品は(歴総)p28・p29、(新詳)p187には九州・四国の産物として記載されておらず、それを以て「本州との交易があった」とするのだろうか。
その直前の「九州や四国」は資料1に確かに明記されている。
因みに、「返り荷(現代の物流用語では帰り荷)」というのは、積み荷を売って空の船(現代ではトラックなども含む)が戻ってきたら輸送効率が悪いため、帰路において買い付ける物品のことである。
教科書などに記載があるわけでもなく、授業で出てくるとも限らない言葉だが、漢字や文脈から意味を推定できるようになろう。
メモ1の「江戸時代には遠隔地を結ぶ海運が発達」に関するベネッセの解説では「東廻り・西廻り海運」が言及されているが、(歴総)p28・p29には記載がなかった。大学入試の歴史総合でどこまでの知識が問われるかはまだ不明で、他社の教科書に記載があるかどうか確認して、後日追記したい。
<メモ2>
資料2の後半にある「平伏する住民を見るのが不快」「賤しむべき習慣」は「記述者が違和感を持っている」と読み取れるし、資料2前半の「群衆の中には女や子供が全く見られなかった」、後半の「住民はまだ女子供を町に呼び戻すまでの安心感は抱いていない」で、「箱館の人々が警戒心を抱いている」というのが分かる。
<メモ3>
資料1「箱館は、~~下田よりも一段と栄えているようにみえる」、資料2「町並は下田より美しい」から、「下田より好印象」は「正」であると言える。
問2
オランダ風説書からの情報はフランス革命のことを指す。(歴総)p40~p42
それが分からなった人は世界史部分の理解がかなり甘いと思われる。教科書に記載されている分をざっくりでいいので、世界史と日本史の年表を平行で作ってタテとヨコの時代感覚を整理しよう。
<出来事が起こった背景>
あ「社会を構成する三つの身分」について、ベネッセの解説では「第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)・第三身分(平民)」とあるが、(歴総)には記載がない。
とは言え、これらの三身分で構成された三部会についての記述がある以上、「分からない」では済まされない。
い「国民によって選出された代表者が国を統治」は、当然ながら時代背景ではなく、フランス革命の結果である。
🌎世界史探究の人
「フランス革命」は大学入試でも頻出なので、内容だけでなく前後関係もしっかりと理解しておこう。
ただ、教科書の内容を羅列しただけの年表整理では何度まとめても頭に残らない。テーマを決めて要点を絞ってまとめることをお勧めする。
例えば、今回の情報のようにフランス革命における王族の動向に焦点が当たっているなら、「フランス革命の大まかな流れ+王家・外国に関する出来事」をテーマとする。(タぺ)p188
その際、まとめる内容はテーマに沿ったものだけにし、なるべくコンパクトにすることを心掛ける。
1789年7月:バステーィーユ牢獄襲撃
王の圧政を象徴する建物として襲撃。
8月:人権宣言採択
国民主権・自由権・平等権などを規定。
10月:ヴェルサイユ行進
食料高騰に苦しむパリ市民が女性を中心にして、国王家を
ヴェルサイユ宮殿からパリへ連行。
1791年6月:ヴァレンヌ逃亡事件
王妃マリーの実家(オーストリア)への逃亡を図るが失敗。
国王家に対する国民の信頼が失墜。
(歴総)p42に地図があるが、(タぺ)p189の地図の方が、国
境を越えてオーストリアへ向かおうとしていたことが実感
できる。
8月:ピルニッツ宣言
神聖ローマ皇帝とプロイセン国王が共同でフランス革命へ
抗議。
9月:1791年憲法制定…立憲君主政、制限選挙を規定。
立法議会成立…国民議会解散後、制限選挙で選出。
1792年4月:革命政府が対オーストリア宣戦布告
8月:8月10日事件…王権停止
9月:ヴァルミーの戦いで初勝利
国民公会召集
男子普通選挙で選出。立法議会解散。
王政廃止・共和政宣言。
1793年1月:ルイ16世処刑
2月:第1回対仏大同盟結成
「コンパクトに」とか言いながら、なかなかのボリュームになってしまいました💦
「教科書をまとめる」というのはよくやりがちな勉強法だが、ほとんどは作業になってしまい、時間をかける割には頭に入っていない。
テーマを決めて、あえて対象を絞ることで出来事の内容を吟味し、関係性を検討するため理解が深まり、知識が定着する。
本筋とはあまり関係ないが、(タぺ)p188左下のコラムにルイ17世についての記述がある。真偽不明な部分も多いが、革命の悲劇の側面も知ることで、多角的な思考ができるようになってほしい。
以下、参考動画
【ゆっくり解説】革命に消えた王子・ルイ17世【歴史解説】
https://youtu.be/pRaNLffAzEI?feature=shared
<出来事の影響>
aの文は事実が真逆。「国民国家の形成」及びbの「自由と平等を理念とする運動の広がり」の具体例として、(歴総)p41注釈②にハイチの独立について書かれている。
また、(歴総)同ページL21~L22にあるように、「自由・平等の理想」を広げることを名目に征服戦争が行われるようになったことも理解しておこう。
フランス革命によって広がった「自由主義」「ナショナリズム」についての説明と各国での影響は(歴総)p43~p46、(タぺ)p193に書かれている。
既述しているが、特に🌎世界史探究の人は(歴総)p45、(タぺ)p193で「自由主義」「ナショナリズム」の広がりと影響をしっかり理解しよう。
そして、(歴総)p52~p53のラテン諸国の独立も含めて、アメリカ独立戦争から始まる一連の動きを「環大西洋革命」と呼ことがある。(タぺ)p185、p194
問3
文章にある「ロシアが日本との通商を求めて使節を派遣」「それを日本は退けた」という二文から、これが日米和親条約締結(1854年)より前の
1792年:ラクスマン来航
1804年:レザノフ来航
この二つの出来事を指していると判断できる。(歴総)p61~p62
この問題ではラクスマンとレザノフの来航順序を問うてはいないが、きちんと流れを整理して把握できるようにしよう。
1792年:ラクスマンが根室に来航。
教科書にもあるように、ラクスマンが日本に初めて通商を要求
した外国使節である。
幕府は外国との交渉窓口は長崎であると伝え、長崎への入港許可
証を渡すが、ラクスマンはそのまま帰国。
また、ラクスマンの目的は日本人漂流民の大黒屋光太夫らを送還
することも目的であった。
光太夫はロシアの女帝エカチェリーナ2世に謁見して送還を許さ
れている。(日探)p206、(タぺ)p173
1804年:レザノフが入港許可証を持って長崎へ来航。
半年間留め置かれた上に通商を拒絶されたことから、長崎を離れ
た後、樺太や択捉島を攻撃。
と、この問題でこの二人の順序を理解できていればOKとはならない。
今まで見てきたように、近代以降を中心に世界史と日本史を学ぶ歴史総合という科目において、きちんと横の繋がりを理解することが望ましい。
では、この二つの事件が起きた18世紀末、19世紀初頭と同時代の出来事は何かと答えられるだろうか?
18世紀末:清にて白蓮教徒の乱が起こり、清の衰退が始まる。(歴総)p27
イギリスにて産業革命が進行。(歴総)p36~p38
1789~1799年:フランス革命
1799~1815年:ナポレオン戦争・ウィーン会議(歴総)p40~p43
勿論、ただ受験テクニックとして同時代のことも暗記しなさいということではない。
教科書の第1章タイトルが「結びつく世界」とあるように、明の大船団や西欧諸国の大航海時代など、16世紀頃から世界的な商業の活発化・一体化が進んだ。
それはつまり、アジアの出来事がアジアの都合だけでなく、アメリカやヨーロッパの都合で左右されるということである。
欧米の資本主義・帝国主義的動きが、アヘン戦争で清を、黒船来航で日本を開国させたことがいい例である。
そのグローバル化が更に更に進んだのが、現代の国際社会である。
今も昔も、一国の政治や経済が一国で完結するなんていうことはない。
「その国がどういう背景・事情を抱えている時に、外に向かってはどのような行動に出たか」と常日頃から観察しようとするマインドセット(物の見方・思考の枠組み)を歴史から学ぶことは、現代社会を良く生きるためには不可欠だから、学校で必須教科になっているのである。
🗾日本史探究の人向け
ラクスマン来航の時期は、11代将軍家斉と松平定信の寛政の改革とほぼ同時代である。(日探)p203~p206
特に(日探)p206の「鎖国の動揺」にあるように、ロシアの東アジア進出が「鎖国の動揺」の嚆矢であり、その後相次ぐ外国船の来航が幕府の外交政策を左右し、蛮社の獄((日探)p209)や上知令((日探)p211)など日本国内の政治にも大きな影響を及ぼすようになっていった。
🌎世界史探究の人向け
ラクスマンの来航は16世紀から続くロシア帝国の東方進出の最終段であった。(タぺ)p173
ラクスマンを派遣した女帝エカチェリーナ2世は始め啓蒙専制君主として改革を進めたが、プガチョフの乱以降は反動化したことで有名で、何よりも計3回のポーランド分割全てに参加した人物である。
こうして18世紀末に国として一旦消滅してしまったポーランドが再び独立するのは123年後、第一次世界大戦が終結した1918年11月11日である。
また、レザノフが持ってきた親書はアレクサンドル1世のものである。
上述の同年代の出来事を見てもらえばすぐ思い出すと思うが、アレクサンドル1世はナポレオンのロシア遠征を退け、ウィーン会議を主導し、神聖同盟を提唱した人物である。
問4
この問題の要点は三つ。
① 分布図(左)でフランス・ベルギーの位置が分かる。
② 分布図(右)でベトナムに稜保式城郭が多く分布していると分かる。
③ ベトナムはかつてフランスの植民地であった。
ベトナムとフランスとの関係は、(歴総)p58に植民地化の様子が、p157に独立の様子が説明されている。
続くp158にはベトナムとアメリカが戦ったベトナム戦争の記述もあり、そことゴッチャになっている人もいるかもしれない。
ベトナムは古来から米食で、中国からの文化的影響も強いが、フランス統治時代の名残から現在でもフランスパンがよく売られている。
問5
資料3は「山林を盗んで洪水を生じさせ~大きな毒の海のようなものをつくって」とあることから公害だと判断できる。
田中正造については教科書本文に記述は無いが、(歴総)p98にコラムがあり、おそらく中学社会でも習っているはずなので、この文章が足尾銅山鉱毒事件についてだと判断できるが、この問題に答えるにはそこまで知識を遡る必要はない。
資料4からは実質GDPの伸び幅が徐々に減っていることが分かるくらいで、今回の選択肢の内容とはどれとも符合しない。
資料5からは18世紀から19世紀のイギリスで人口が都市部に集中している様子が分かる。
この人口動態は(歴総)p37の産業革命と時期を同じくし、農村から労働者として人が都市に流入していると考えられる。
資料6は見るからに川が汚れており、悪臭が漂っていそうな鼻をつまむ紳士の様子からテムズ川で公害が起きていると読み取れる。
先程説明した都市への人口集中でスラムが形成され、工場や家庭から排水が垂れ流されて公害が発生していた。(タぺ)
問6
資料7を読んでいる途中で、二重線部「機会を得て絶対に復讐の志を遂げよう」とは1895年の三国干渉による遼東半島返還のことである。
そして日本に圧力をかけて遼東半島を放棄させたら、その舌の根も乾かぬうちに三国を含めた列強諸国は瞬く間に中国分割を行い、あろうことかロシアが遼東半島に勢力を築いた。
そのため、この時期の日本国内の対ロシア感情は最悪となり、「臥薪嘗胆」の標語が流行した。(歴総)p80
そして空欄Yに当たる選択肢だが、そもそも資料7L5~L6に「ロシアと利害を異にするイギリスと結託して同盟を結ぶしかない」とあるため、難しく考える必要はない。
ただ、会話文の空欄Yの直前の文脈に沿うのなら、資料7の「その富んでいることは依然として世界で最も優れているところ」「海軍の拡張は驚くほど、我が国の現在の実力ではこの海軍を駆逐できない」という内容が「経済力・軍事力の観点」からもイギリス同盟論支持であることが分かる。
問7
メモ5について、資料8から北海道の就学率は全国と比較して低い傾向は見てとれるが、他の都道府県の就学率が記載されているわけではないので、「女性においては全国で最下位」とは言い切れない。
メモ6について、資料9の冒頭で「食料にあてる物産を改良する」とあり、その後に「米の栽培には費用がかかる上に栄養も劣る」とあるので、「日本の主食を米から改めるべき」という主張は「正」である。
なお、「蒙古斑」の命名や、明治憲法発布時に民衆が「お祭り騒ぎだが内容を誰も知らない」と皮肉ったことで有名な「ベルツの日記」で有名なお雇い外国人でドイツ人医師のベルツは、以下のようなエピソードを伝えている。
問8
A班が言う「中国が開港するきっかけとなった条約」とは何かがまず分からないといけない。
「ヨーロッパに対して中国が開港する」というと、大問1問1の解説で示した南京条約と北京条約である。
そのうち、調査対象b「アヘンの密売を背景として起こった戦争=アヘン戦争に敗れた」ことで締結した条約は南京条約のことである。
🌎世界史探究の人向け
なお、清というか、中華王朝がヨーロッパの国と初めて結んだ対等な条約は、1689年のネルチンスク条約である。山川の歴史総合の教科書には記述はない。
この条約のメインは清北方におけるロシアとの国境画定であるが、実は通商についての取り決めもなされている。しかし、港を開いたわけではなかったので、今回のA班の調査対象にはならない。
B班が言う「開拓や移住が先住民に影響を与えた事例」は、
調査対象d「移住してきたイギリス人によって征服されたオーストラリア人=アボリジニ」との組み合わせが「正」である。
この問題を間違えてしまった人は、物事の具体と抽象の往復を苦手としているかもしれない。
つまり、A班の「条約による開港をきっかけとする、ヨーロッパ文化の流入が中国に影響を与えた事例」という、具体的な固有名詞が使われていない抽象的な文章の中にある「条約」が何を指しているのか(今回で言えば南京条約と北京条約)を想起できないと、この問題に躓く。
これが、「条約によって広州や上海が開港されたことをきっかけとする」と書かれていたらどの条約のことか分かった、という生徒はいるかもしれない。
それはそれで、南京条約でどこが開港されたかをちゃんと覚えていて素晴らしいのだが、その形式だと、ただの暗記だけでも解けてしまう。
現在の共通テストで求められている力の一つが「歴史的知識と読解力を結び付けて考える力」である。
今回の場合で言えば、
① 初めて「南京条約」を勉強する時に、「アヘン戦争で負けて締結」とか「広州や上海など5港を開港」など、具体的な固有名詞と固有名詞の繋がりを理解する。
だけではなく、
② 「南京条約」とは「清がヨーロッパの国に戦争で初めて負けて結ばされた条約である」とか「それまで外交・通商方針を変更させられた上に、領土まで奪われた条約である」など、抽象的な段階まで理解を深める。
という、深い学習の結果を問うているのである。
🖊学校の先生向け
なお、ここで言う「抽象的な段階までの理解」とは、中央教育審議会や探究学習の研修会などで用いられる「概念的な知識」などと同義だと思っておいて下さい。
「具体と抽象の往復」については、今回のような教科学習だけでなく、社会人になっても必要なものなので、後日改めて記事にしたいと思う。