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短編小説:伝説の吸血鬼

 満天の星空を飛んでいる夢を見ていた。
    翼をはためかせ、自由に空を飛んでいることがこの上なく楽しい夢だ。昔はそんなふうに空を飛んでいたような気がしてならない。目が覚めてからもしばらく夢の余韻にひたっていたが、我が身に翼がないことで現実に引き戻された。
 昨日は美酒にでも酔いしれていたのだろうか。眠る前の記憶が全くない。喉が渇いて仕方ないのは、長く眠っていたせいだろう。
 特製のベッドから体を引き剥がすように起き上がると、全身がきしむように痛んだ。
 窓から差し込む月明かりが朝はまだだと告げている。景色の先に見えた時計塔の針は真夜中を指していた。

 それにしても外がやけに騒がしい。人の奇声……いや、悲鳴だろうか。気になった私は外の様子をうかがった。
 古いホテルの塔屋からは、街の様子が一望できた。明かりの灯った家はどこにもなく、降り注ぐ月明かりは建物に遮られ、目の前の通りは暗闇に包まれていた。
 その闇の中を右往左往する人影が見えた。皆、何かから逃げるように何度も後ろを振り返りながら走っている。彼らの視線の先に目をやると、やはりそこに追う者の姿があった。
 ふざけて騒いでいるのか、それとも何か不穏な事態が起きているのか。後者の場合、状況を把握しておく必要があった。
 私は部屋を出ると、物音を立てないよう下の階へと降りていった。一階まで降りると、さほど広くないエントランスに人影はなく静まり返っている。時折、玄関の向こうから人々の叫び声が響いてきた。
 足音を忍ばせ、玄関のドアに近づくと内側から鍵がかけられている。外の様子を探ろうと鍵に手を伸ばした時、背後から声がした。
「開けちゃだめ!」
 声は受付のカウンターから聞こえてきた。そちらに目をやると見かけない少女が祈るような姿で立っている。近づこうとすると警戒するようなそぶりだ。
 私は「心配いらない」という意味で手のひらを向けたが、こちらの姿がよく見えていないらしい。どうやら目が悪いようだ。
 仕方なく少し離れた場所から声をかけてみる。
「外で……何が起こって……いるの?」
 喉の渇きのせいで声がうまく出なかったが、声を発したことで私が女だとわかり、彼女の顔から警戒の色が消えたようだった。
「よくわかんない。けど、悪魔の言い伝えは本当だったってみんな言ってた」
「悪魔の……言い伝え?」
「知らないの?」
 眉を寄せた私以上に彼女の顔は怪訝になった。
「ええ……知らないわ」
 相変わらず声がかすれるのが煩わしかった。

 ──百年に一度、満月が退魔の星を隠す夜に不死の悪魔が目覚める

 この街に住む者なら誰もがその言い伝えをを知っているらしい。そして不死の悪魔とは吸血鬼のことだと彼女は言った。外の騒ぎは街の住人が吸血鬼に襲われているのだ。
    彼女はキャサリンと名乗った。このホテルの近くに家族と暮らしているらしい。まだあどけない表情から察するに、年は十五、六歳だろう。
「家族は無事なの?」
 私の問いかけにキャサリンは不安そうに首を振る。
「わかんない。パパが教会なら安全だって言うから街のみんなで向かってたんだけど、私だけはぐれちゃってここに隠れたの」
「じゃあ鍵をかけたのは……あなた?」
「うん」
「そう……」
 言いながら私は玄関に目を向ける。人々の悲鳴が聞こえなくなったのだ。 
 危険はもうそこまで迫っているのかもしれない。彼女を吸血鬼の餌食にさせてはならない。そんなおかしな正義感みたいなものが漠然と私の中にはあった。
「こっちへ!」
 私はキャサリンの手を引くと、裏口のある厨房へと向かった。同時に玄関のドアが破られた。鍵は役目を果たさなかったようだ。
 私は振り返り目を凝らす。見た目は人とほとんど同じだが、青白い肌に赤い瞳、その口元は血に染まっている。吸血鬼だ。
 幸いにもまだこちらには気づいていない。音をたてないよう裏口を出ると、キャサリンはすぐさま教会へ向かおうとしたが、私の本能がその選択は危険だと告げていた。
「こっちよ!」
 教会とは反対の方へ手招きをする私に、キャサリンはためらいながらもついてきた。
「教会に行かないの?」
「ええ、何だか嫌な予感がするの。あいつらに見つからない場所を……探した方がいい」
 目的の場所はすぐに見つかった。狭い路地に面したドレスを仕立てる工房だ。住人はあわてて逃げ出したのか、鍵はかかっていなかった。
 工房の中は狭く、暗闇の中でキャサリンは椅子や作業台に体のあちこちをぶつけていた。出来上がったばかりのドレスを着させたトルソーが並ぶその陰に、二人ともしゃがんで息をひそめた。
 だがなぜだろう。こんなところで、昨日浴びるほど飲んだ美酒の味を思い出し、喉の渇きが増してきた。
 ふと、工房に作り付けられた姿見に自分の姿を映した時、眠る前の記憶がだんだんと甦ってくる。そして長く眠っていた理由も、暗闇の中で自分だけ目がよく見えている理由もはっきりとした。
 私にとって眠りについた昨日とは百年も前のことなのだ。
 教会に向かわなかったのは聖職者がいるから。
 キャサリンを吸血鬼から守りながらここへ連れて来たのは、他の吸血鬼に奪われず一人占めしたかったから。
 今夜も若い娘の美味なる血を浴びるほど飲み、記憶を失うほど酔いしれるだろう。そして特製の棺桶のベッドで再び百年の眠りにつく。

 そう、私も吸血鬼だったのだ。

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