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砂糖の世界史①ニューギニア⇒インド⇒イスラム⇒大西洋の島々⇒中南米

日本人がハワイに移民する契機となったサトウキビの栽培には、どのような歴史があるのだろう。川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書276)に導かれて、その歴史をたどってみた。

サトウキビの原産地はニューギニア島で、インドや東南アジアに広まっていった。砂糖は、イスラム教徒によってコーランとともに西へ旅をし、イスラム教徒の支配地域には、サトウキビの栽培と製糖の技術が伝えられ、8世紀はじめには地中海東部の島々でサトウキビの栽培が盛んになった。

サトウキビの栽培には、適度の雨量と温度が必要なうえ、その栽培によって土壌の肥料分が消耗して土地が荒れるため、新鮮な耕地を求めて移動していかなければならなかった。また、サトウキビの栽培と製糖は、重労働で、規則正しい集団労働を必要としたので、奴隷のように強制的に働かされた人々がいた。

ヨーロッパのキリスト教徒が、砂糖のことを知り、サトウキビを栽培するようになったのは、11世紀末に始まった十字軍運動から。聖地エルサレムの奪回をめざしてヨーロッパ各地のキリスト教徒が参加したこの運動は二世紀におよび、ヨーロッパ人はイスラム世界との交易の筋道をつけ、その文化を学んだ。

ヘルマン・アドルフ・ケーラー (1834 - 1879、医師、化学者) が描いたサトウキビ

ヨーロッパ人はラテン帝国で砂糖の生産技術を学んだ。蜂蜜しか知らなかったヨーロッパ人に、砂糖の強烈な甘さと純白さ、高価さは、神秘性を帯びて見えた。砂糖はヨーロッパ社会に次第に普及していったが、なおそれは、ごく限られた上流社会のあいだでの、薬品や権威の象徴であった。

砂糖生産は15世紀末、ポルトガルの大西洋沖にある島々や西アフリカのギニア湾沖のサン・トメ島などに、その中心が移った。これらの島々はポルトガル人をはじめヨーロッパ人の対外進出の拠点で、ワインの生産地だが、ひと頃はアフリカ人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションが大規模に展開された。

ポルトガルは13世紀、いち早くイスラム教の支配を脱して独立国となり、15世紀にはエンリケ王子の努力でアフリカ西海岸に進出し、アジアへの航海をめざした。この時以来、サトウキビの栽培の旅の担い手は聖書を手にしたポルトガル人となった。これらの島々での砂糖生産は16世紀はじめに急速に成長した。

ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見(1497-1499)

大西洋の島々で生産された砂糖は、ベルギーのアントウェルペンの国際市場でヨーロッパ各地に売り捌かれた。砂糖は誰もが好きな高級食品で、これがプランテーションで大量生産できることが分かると、ヨーロッパ諸国は競って砂糖生産を組織しようとしたので、贅沢品ではなくなっていく。

ヨーロッパ人が世界各地へ出かけたのは、金銀と新しい有用な植物を探すためだった。ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、タバコ、キャッサバ、コーヒーが発見され、気候と土地と労働力の整った場所に移しかえられた。砂糖生産に大西洋の島々は手狭で、コロンブスはサトウキビの苗を新世界へ携えていく。

1500年、ペドロ・カブラルが漂流してブラジルに到達。ボルトガルは、アフリカ西海岸とブラジルを植民地として持つと、カリブ海のスペイン領の島々で生産され始めたサトウキビを、西アフリカで獲得した奴隷の労働力を使って、ブラジルで大規模に栽培。16世紀の砂糖生産の中心は、ブラジルへ移っていく。

クリストファー・コロンブスの西廻り航海(1492-1504)

17世紀に入ると、サトウキビの生産地は、オランダ人の媒介で、カリブ海のイギリス領バルバドス島やフランス領マルチニーク島に移った。スペイン領ネーデルラントの北部7州が1591年に独立し、南部10州が独立に失敗すると、アントウェルペンは衰え、アムステルダムが世界経済の中心に。

原生林と岩山のカリブ海の島々は17世紀、一面のサトウキビ畑に変わった。かつてはたくさん住んでいたカリベ族はほとんど消滅し、アフリカから連れてこられた奴隷が人口のほとんどを占めるようになった。豊かになったプランテーションの所有者は本国に帰り、黒人奴隷の監督は、少数の白人に任せられた。

サトウキビは、刈り入れてからいかに短時間に砕いて原液のジュースを絞り出すかが勝負で、そのタイミングで収穫量は大きく異なる。サトウキビを砕き絞る工程には大変な力を必要としたので、工場を伴っていた。最初は畜力によってジュースを絞り出す作業場が中心で、やがて大規模な工場に発展していく。

William Clarkが1823年に描いたアンティグア島10景のうち、Gambleの農園の製糖工場

カリブ海の島々の砂糖プランテーションの奴隷たちは、10歳前後で、ヨーロッパ人から鉄砲を与えられた西アフリカ沿岸部の黒人王国の人々によって奴隷狩り。奴隷商人たちは、船に可能なかぎり奴隷を積み込み、飲み水も十分に用意しなかったので、脱水症状や伝染病で亡くなる奴隷が続出。

カリブ海の島々に着いた奴隷たちは、せり市にかけられて、プランターに売られていった。プランテーションでは、アフリカにはない病気、気候、生活環境、苛酷な労働が待っていて、数十%の人が現地慣れの期間に亡くなった。ヨーロッパ人がカリブ海、ブラジル、米国南部に運んだ黒人奴隷は1千万人以上。

鉄砲、ガラス玉、綿織物などを積んだ奴隷貿易船は英国リヴァプールを出航。西アフリカの黒人王国で積み荷と奴隷を交換。獲得した奴隷を中間航路にそって運び、カリブ海や南北アメリカで売り、砂糖や綿花を獲得してリヴァプールへ帰港。航海は2カ月以上に及んだが、奴隷貿易や砂糖輸入は元手の2倍に。

三角貿易

16世紀以降、新しい食品が世界からヨーロッパに大量に持ち込まれ、特にイギリス人の生活を一変させた。茶は、1600年設立のイギリス東インド会社が中国から輸入。17世紀後半からロンドンなどで流行した上流市民や貴族の社交場コーヒーハウスで、砂糖入り紅茶が楽しまれるようになった。

貿易商人が贅沢をすると、貴族は、それ以上に派手な生活をと競うようになる。イギリスでは、お茶を飲む習慣は王室から始まり、女性たちはティーパーティでゴシップに花を咲かせるようになる。砂糖と茶、2つの舶来品を重ねることで、砂糖入り紅茶は非の打ちどころのないステイタス・シンボルになった。

17世紀半ばに成立した航海法などクロムウェルの反スペインの政策は、イギリスの貿易を増やし、18世紀半ばにはアジア、アメリカ、アフリカとの貿易が、ヨーロッパとの貿易に匹敵するようになる。砂糖、茶などの輸入品は激増し、値段が下がると、砂糖入り紅茶は民衆に広がり、国民的飲料になっていく。

1740~50年代にFrancis Haymanが描いた「Quadrilleで遊ぶ英国上流階級の人々」。
Quadrilleは18世紀に流行したカード・ゲーム。
画面右側にお茶を用意する白人の女性と黒人の子供を描く。

17世紀中頃、コーヒーがトルコからマルセイユ港に上陸すると、フランスの大きな町には多数のカフェができ、繁栄した。カフェは、文学者や思想家が集まる場所になっていく。100年で衰えたイギリスのコーヒーハウスと異なり、フランスのカフェは文化センターの役割を果たし続けている。

チョコレートは、1528年にアステカ帝国を滅ぼしたスペイン人が本国に持ち帰った。スペイン王室はチョコレートに砂糖を入れて飲むことに熱中。1607年にその製法が明らかになるとイタリアやフランスの貴婦人の飲み物として広がり、中南米の植民地にカカオ豆のプランテーションをつくるようになっていく。

砂糖の生産工程は、収穫したサトウキビを、畜力や風力でゆっくりと回転させた臼で絞り、何度も煮詰めて結晶を取り出す。残りかすの廃糖蜜を発酵、蒸留、熟成させたラム酒は17世紀に誕生。カリブ海の植民地から北アメリカ、イギリスなどへ輸出され、アフリカでは奴隷と交換され、植民地でも愛飲された。

シシリア人のFrancesco Procopio Cutòが1686年に開店した、
パリで一番古いカフェ「Le Procope」。

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