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砂糖の世界史②現在はブラジルとインドの生産量が多く、ハワイは生産停止
日本に初めて砂糖が伝わったのは中国の唐から。砂糖に本格的に親しむようになったのは戦国時代にポルトガル人が持ち込んだお菓子から。国産の砂糖が作られ始めたのは江戸時代の琉球(沖縄)や奄美大島で。薩摩藩は奄美大島を支配して砂糖を藩の専売とし、幕府に対抗できる財力を蓄えた。
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8代将軍徳川吉宗は18世紀初め、輸入に頼っていた砂糖の国産化をめざし、各藩にサトウキビの苗を渡して試植させた。砂糖製造法を記した中国の技術書にもとづき、四国、中国、近畿などの各藩はサトウキビを栽培し、砂糖生産に取り組んだ。琉球は黒糖だが、19世紀には讃岐や阿波で白砂糖が作り出された。
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明治になって、外国産の安い砂糖が大量に流入すると、琉球を除いて、もともと気候がサトウキビ栽培に適していない日本各地の砂糖産業は輸入品に対抗できず、消滅していった。ただ、和白糖の中でも高級品である讃岐や阿波の「和三盆」は、さらりとした口どけと上品な風味が珍重されて、生き残っている。
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ヨーロッパで最初にお茶を飲んだポルトガルでも、次いでアジアに進出したオランダでも、砂糖入り紅茶を飲む習慣は広がらなかった。しかし、イギリスからアメリカ13植民地に移住したプランターたちはイギリス人らしい生活をしようとしていたので、紅茶を飲む習慣をまもなく取り入れた。
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アメリカの植民地は、1607年のジェイムズタウンに始まり、17世紀後半の南部ではタバコを栽培してイギリスに輸出、北部ではカリブ海の植民地に穀物や木材を輸出し、砂糖やラム酒を輸入。豊かになった人々は、イギリスから茶とカップ、ソーサー、ポット、タオルなどを輸入し、ティーパーティを楽しんだ。
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1763年、フランスとの7年戦争に勝利したイギリスは借金を返済するため、アメリカ植民地への輸出品に課税。植民地の人々はイギリスからの輸入品をボイコット。するとイギリスは税金を廃止したが、茶の税金は残した。1773年、ボストンのイギリス船に潜入した人々は積み荷の茶を海に捨て、アメリカ独立の機運が高まる。
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1773年12月16日の夜、先住民族風の扮装をした約50人が
ボストン港に停泊していたイギリス東インド会社の船を襲撃。
「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら、342箱の茶箱を海に投げ捨てた。
イギリスでは18世紀末から19世紀初めにかけて機械や蒸気機関を用いた工場、鉱山、交通機関が発展。人々は農村を出て、ロンドン、リヴァプール、マンチェスター、バーミンガムなどの都市の工場で働く労働者になった。労働者は狭くて汚い住宅に住み、時間を厳しく守ることを要求された。
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そうなると、朝食は簡単に準備できて、食べるとすぐに元気が出るものが求められた。その条件にあったのが紅茶と砂糖と店で買うパンやポリッジ(オート麦を湯で溶いて粥にして食べる)の朝食。紅茶と砂糖はカフェインを含む即効性のエネルギー源で、仕事の合間のティ・ブレイクも朝食同様の意味を持った。
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こうして、砂糖入り紅茶は、アフタヌーン・ティなど上流階級のシンボルとしての意味と、ティ・ブレイクなど労働者の生活必需品としての意味の、2つの意味を持つことになった。なお、イギリスの砂糖消費量は1970年代までは1人あたり年間47kgと世界のトップランクにあったが、2020年は26kgに半減した。
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女性労働者たちがパンと紅茶とポテトの食事をしている場面を描いたEyre Croweの作品。
実際の光景よりも美しく描いていると批判された。
産業革命が進むと、イギリスは、地主や農業経営者の保護から、都市労働者や工場経営者の保護へ、方向転換する。穀物価格を守っていた穀物法を1846年に廃止し、東ヨーロッパや南北アメリカから穀物を輸入。国際価格より高い英国の穀物価格は下がり、工場経営者は労働者の賃金を抑えられた。
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プランターの意向を代弁するイギリスの国会議員は、フランス領産砂糖に高い関税をかけて輸入できないようにし、イギリス領産砂糖の利益を確保。茶も東インド会社の独占体制に守られて高値を維持していた。工場経営者を代弁するマンチェスター派の国会議員はまず福音主義者と共に奴隷貿易と奴隷制度を批判した。
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1807年に奴隷貿易を廃止。1833年にはイギリス領植民地全域で奴隷制度を廃止。プランターたちは奴隷でなくなった黒人たちを利用し続けようとしたが、失敗してプランテーションは崩壊。1852年にはイギリス領と外国領砂糖の関税は同率に。同じ頃、東インド会社の茶貿易独占も廃止。労働者に安価な朝食を確保した。
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画面中央にClarksonを見上げる解放された黒人奴隷の代表者を描いた。
近代国家の統一に遅れをとったプロイセンは砂糖植民地を獲得できなかった。1747年、プロイセンの学者がビート(テンサイ)の根にかなりの糖分が含まれていることを発見し、1799年にはビートの品種改良と砂糖製造方法の研究を完成。喜んだ国王は、本格的なビート糖の生産に取り組ませた。
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1806年の大陸封鎖で砂糖の輸入が途絶えていたフランスのナポレオンも、ビート糖の生産を命じた。1880年代には、ビート糖の生産がサトウキビ糖の生産を追い抜いた。第一次世界大戦で砂糖の輸入が途絶えた日本も、北海道でビートを栽培。近年では、旧ソ連圏、西ヨーロッパ諸国、米国などがビートを栽培。
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しかし、ビート糖は政府の支援がなくなると、経済コストが高いものであることが判明。一方、サトウキビ栽培は奴隷制度がなくなった後、アジアからの移民労働者を使うなどの方法で回復し、オセアニアやインドに新しい栽培地を展開。
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2021年の統計では砂糖生産量の80%がサトウキビ糖、20%がビート糖。国別の生産量ランキングでは、①ブラジル、②インド、③EU(ビート糖)、④タイ、⑤中国、⑥米国(ビート糖50%)、⑦パキスタン、⑧オーストラリアと続く。生産量と消費量の上位国は、ほぼ同じ。
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テンサイ(サトウダイコン)の図
ハワイにサトウキビを持ち込んだのは古代ポリネシア人で、繊維の多いサトウキビを噛んで歯の掃除をしたほか、関節炎や風邪、咳などの治療薬として用いた。欧米人の来島以前のサトウキビは農作物のひとつにすぎなかった。砂糖産業に用いたのは海外から持ちこんだ農業用サトウキビ品種。
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1835年、ホノルルに貿易商社を設立した米国人フーパーは、サトウキビが野生化して生い茂るカウアイ島コロアの土地をカメハメハ3世から借り受け、ハワイ人を雇ってサトウキビ農園を開墾。1848年には土地の割譲法案が成立し、1890年には全私有地の75%を白人が所有。これが砂糖産業拡大の下地となった。
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1849年、カメハメハ3世が米国と和親条約を結ぶと、米国西海岸のゴールドラッシュや南北戦争による米国南部産砂糖の供給停止を背景に、米国への砂糖輸出が拡大。さらに1875年、カラカウア王が砂糖の関税免除と真珠湾の独占使用の互恵条約を結ぶと、米国への輸出増加でハワイの砂糖産業は飛躍的に発展。
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砂糖産業の経営者が最初に雇用したのはハワイ人。しかし欧米由来の伝染病によるハワイ人の激減に直面し、王立ハワイ農業協会は1852年、外国人労働者の導入を決めた。第1陣は中国人で、1880年代に入ると中国人の人口が全体の1/4になったため、ポルトガル人などの移民を雇い入れた。
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1852年~1946年に、中国、日本、南洋諸島、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スペイン、プエルトリコ、沖縄、朝鮮、フィリピン等から約40万人がハワイのサトウキビ農園へ。労働者は低賃金で過酷な労働環境を共有したため、助け合い精神やピジン英語が生まれ、多民族社会ハワイの土台が作られていった。
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1990年代、ハワイの砂糖は新興国の低価格攻勢に耐えられなくなり、一時は100カ所以上あった農園が次々に閉鎖。カウアイ島最後の農園が2009年に閉鎖後、唯一営業を続けてきたマウイ島のAlexander & Baldwin社が2016年に工場を停止。工場前にハワイの砂糖産業史を展示する砂糖博物館を残す。
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