春は、コインみたいな季節だと思った。

3年前僕は、会社の寮に入るために引っ越しをした。

2年間の浪人期間を経て、やっとなれた大学生。そんな僕が4年間住んだ城は、段ボールだけの殺風景な部屋になっていた。

その時になって初めて、いや、正確には今までも、心の底では抱いていた想いが顕在化した。

もっとこの部屋のポテンシャルを引き出した生活をすればよかった、という後悔だ。

もっとおしゃれに、もっと住みやすく。工夫はいくらでもできたはずなのに。

同じ後悔は、街に対してもあった。住んでいた頃は、あまり興味を持てなかった場所たちも、引っ越しが決まってからは魅力的に思えてくる。

あのさびれた焼肉屋も、あの駅前のしゃれな喫茶店も。4年もあれば、一回は赴くことくらい出来たはずだったのに。

未練はあったが、引っ越し先は同じ都内。またいつか来ればいい、きっと来れる。そう思っていた。

引っ越しは、友人とレンタカーで行うことにした。ありがたいことに、会社の寮には家具家電がついているので、慣れ親しんだものは処分して、必要最低限のものを運ぶだけでいい。

少ない荷物をレンタカーに詰め込んで、新居へ出発。車を走らせてすぐ、公園の前を通った。そういえば、この公園は東京でも指折りの桜の名所と言われている。

まただ。また別の後悔が、顔を出した。

そこには、あまりに立派に咲いている桜があったのだ。こんな近くに、こんな綺麗な桜が咲いている場所があったなんて。

街を去る時になると、認識していなかった後悔が、僕の前に現れる。まるで、忘れないでくれと言っているかのように、一つ一つが僕を後悔させてくる。

春は出会いと別れの季節だ。

出会いがあれば別れがあるし、別れがあれば出会いもある。それは、コインの表と裏みたいなもの。

春は、コインみたいな季節だと思った。


一昨年、まだ新型コロナウイルスの感染拡大を誰一人として予想していない2019年の春。

僕は、久しぶりにあの街へ帰ってみることにした。僕が、彼女とのデートに指定したのだ。

社会人は予想以上に忙しく、僕の時間や体力は毎日底をついていた。いつでも行けると思っていたあの街にも、結局帰れていない。

懐かしいあの駅に到着。駅でレンタル自転車を借り、まずは僕の城だったあのアパートへ向かった。

カーテンがついている。新しい入居者がいるのだろう。あれから1年経つのだから、当然だ。

「君は、僕以上にその部屋を楽しんでくれよ」と、心の中で入居者へエールを送った。

それから、あの公園へ向かうことにした。

公園につくと、今となっては考えられないくらいの人混みになっている。きっとみんな桜を見に来たのだろう。

自分の近所だった場所とはいえ、こんなに人が集まる場所だとは思ってもみなかった。

僕は、この近すぎた楽園のことを何一つ知らなかった。あの苦々しい想いを1年越しに改めて実感する。

売店が並び、買い物に夢中になっている家族もいる。みんな笑顔だ。

その公園には、サイクリングロードがある。だから、駅で自転車を借りてきたのだ。桜の中をサイクリングするデート。なかなかに粋なデートだろう。彼女も、僕を見直すに違いない。

借りてきた自転車でサイクリングロードを走る。桜によそ見をしながら、暖かくなってきた風を切った。心地よい時間だ。

彼女は、僕の存在を忘れてしまったかのように、ずっと前を走っている。きっと、この絵画のような景色の中で自転車に乗っていることを、楽しんでいるのだろう。

後ろ姿からでも彼女の頬が緩んでいることが、僕には分かる。どうやら、僕の策は成功のようだ。


あのデートから2年が経つ。

あの頃から全く予想が出来ないくらい、世界はぐちゃぐちゃになってしまった。もしかしたら、今までの生活を取り戻すことは出来ないかもしれない。それくらいに、世界は変化を余儀なくされている。

でもきっと、

あの公園のあの桜たちは、そんな世界のことなど気に求めずに、咲き乱れているのだろう。世の中の事なんて知ったことかと、自分の使命を全うしているに違いない。


結局、あの街にいた時は、あの近すぎた楽園の存在に、終ぞ気づくことはなかった。

後悔というのは、読んで字のごとく後から悔いることを指す。あの街に残してきた後悔の数は、数えきれない。

今は別の街で生活しているけれど、いつかこの街からも旅立つ時が来るだろう。新しい街に住むということは、いつかその街を去ることも意味している。出会いと別れは、コインみたいなものだから。

あの時、あの街にいた時の僕は、近くにあった楽園を楽しもうともしなかった。

今度は、味わいつくそうと思う。それが出来れば、今度の別れの時の後悔は減っているだろう。

それに、今度は一人じゃない。当時は遠距離恋愛をしていた彼女もいる。これほど心強いことはない。


そういえば、近くにある公園には、桜は植えられているのだろうか。

もしかしたら、あの楽園のようにピンクに溢れた場所になっているかもしれない。

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