週報0227-0312
残り9
『結婚の奴』能町みね子
一年以上気になっていたけど買えずにいた『結婚の奴』をようやく買って読んだ。とてもとても良かった。能町さんのエッセイを読むのは実は初めてなのだけど、すっかりファンになってしまった(久保みねヒャダのお正月スペシャルは毎年観ている)。
恋愛やセックスがしっくりこないけれど、誰かと同居して仕事の効率を上げたい。結婚なんて紙切れ一枚なのに、未婚であることで自分には何か決定的なものが欠けていると思わされてしまう。そんな日々の中で著者はあるときこのように考える。
そうだそうだ、自分の生活と精神を立て直すために、ゲイの誰かと恋愛なしで結婚すればいい。世間が想像するような「結婚」ではないかもしれないけれど、いままで祖父母や親兄弟としか同居したことがない私が、突然他人と「結婚」して「家族」になる、というだけで大変な飛躍である。未知の星に降り立つようなときめきを感じる。
私はこの思いつきにかなり興奮した。革命的な案に思えた。
とはいえ、もちろん、ゲイなら誰でもいいというわけにはいかない。同じ場所で暮らすにあたって性格の合う合わないは当然あるし、なにより先方が協力態勢でないことには何も始まらない。
そこで白羽の矢が立ったのがサムソン髙橋さんだ。このエッセイでは、彼と能町さんが生活を共にするに至るまでの顛末が書かれるのだが、書かれるのはそれだけではない。過去の経験から、能町さんにとって恋愛よりも「恋愛的だったもの」について、多くのページが割かれている。そこがとても良かったのだ。雨宮まみさんの話と、10年以上住んでいた「加寿子荘」とその大家さんの話。
この感情は世間一般の常識からして恋愛と呼べるわけがないけれど、一つ一つの要素を見ると、これと恋愛との境目なんてどこにあるのか分からなくなってくる。かつて、私が加寿子荘のことを友人に語っていたときに「のろけてるみたいだね」と言われたけれど、この言葉はまさに核心を突いている。ほぼ恋愛なのだ。
この文章を読んで、現代思想の「〈恋愛〉の現在」特集に寄せられた清田隆之さんのコラムを思い出した。そこでは、失恋とは〝小さな死〟とも言うべき喪失体験であり、彼がそれを初めて経験したのは恋愛においてではなく、幼い頃から住んでいた家から引っ越さなくてはいけなくなったときだった、ということが語られていた。
世間一般の「恋愛」とされるものの狭さや、そこからこぼれ落ちる名前のない執着や愛着が確かに存在すること。そのことについて考えた。そのような個人的で大切な感情を、能町さんがこの本に書いて見せてくれたことがとても尊いことだと思った。本当に良い本でした。
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