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抽象と具体を行き来するaikoの世界

私はaikoが好き。中学の時に、放課後家のPCのyoutubeで『横顔』を聞いて衝撃を受けて以来、学校の理科実験室の机にaikoの歌詞を落書きしたり、ホムペやデコログにaikoの歌詞をのっけたり、とにかくaikoが紡ぐ美しい物語と、陽と陰を映し出す生々しい情景描写に、感銘を受けた。

aikoの曲は、作り物感が全くない。音楽を聴くとき、私自身と曲自身の間には溝がある。それは自己と他者の埋まらない溝と同様、どこか俯瞰して「他人の物語」を聴いているような感覚が少なからずある。否、aikoは違う。私自身がどこまでもaikoの曲に同化していき、aikoの物語は私の物語になる。

なぜか。aikoの曲の中には多くの「隙」がある。ここで言う「隙」というのは、「隙間」のような感覚に近い。我々聴き手が想像を強いられる隙間が多いのだ。aikoは極端な抽象と具体を繰り返す。聴き手はその抽象と具体をつなげて世界や物語を論理的に完結させるために、自らの「想像」を介入させることになる。自分自身の記憶や体験や価値観を曲に重ねるのではなく、曲に無理やり入れ込むのだ。

特徴的な曲を一つ挙げるとすると、アルバム彼女の6曲目の『17の月』という曲。

あなたの丸い爪に射して跳ね返す オレンジの色
帰りたくなかった 寄り道をして 迷ってしまえと本当は祈ってた
長い道路の白い線が消えるまで止まらないでと

まずBメロサビ直前のこのフレーズ「あなたの丸い爪に射して跳ね返すオレンジの色」。「丸い爪」「跳ね返す」「オレンジ」具体的な設定が散りばめられているのに、全体としては何を言っているのか分からない抽象性がある。聴き手はこれらの単語を紡いで強制的に想像させられる。その解は、恐らく「夕焼け」という情景描写であろうが、ここに考える余地が生まれることで、聴き手に主体性が生まれて、「誰かが見ている景色」という視点から「私が見ている景色」という視点に逆転する。

そしてサビの「帰りたくなかった 寄り道をして迷ってしまえと本当は祈ってた」というフレーズ。何故帰りたくなかったのか。寄り道をするという言葉から、何かの帰り道だろうか。何に迷ってほしかったのか。「本当は祈ってた」ということは本心とは別の感情があったのだろうか。

具体的な行動や気持ちが提示されているが、全体を通してみると解釈が難しい。そして極めつけは、最後のフレーズ「長い道路の白い線が消えるまで止まらないでと」。「長い道路」の「白い線」、これはいったい何を表しているのだろうか…?

お分かりだろうか、サビに行くにつれてどんどん解釈が難しくなってきているのだ。具体的な言葉を散りばめつつも、全体を通して見ると、全く完成されていない隙だらけの抽象的な物語。聴き手は自らの意思で主体的に想像し、この物語を完成させなければいけない。この想像の強制力こそがaikoの曲の魅力だと私は思っている。

ちなみに私は、この曲を中学の時からずっと考え続けている。学生だった時、私の中にあったこの曲の情景は、夕方の学校のグラウンドだった。長い道路の白い線というのは、野球部とかがグラウンドに引くあの白線のことで、部活終わりの秋の夕焼け、グラウンドで消えかけながら煙り、土埃と一緒に舞う白い粉の描写を想像していた。当時はそのような描写を強く記憶しており、曲に反映したかったのかもしれない。

しかし今は、車道や歩道にある、あの白線を想像している。

時を経るにつれて、人の記憶も価値観も変わり、解釈も異なっていく。だから、解釈なんてものはその人のその時の一瞬の光のようなもので、だからこそ生きることは今にスポットを当てるべきなのだなと思う。

と、いきなり話が飛躍したが、これがaikoの曲が持つ想像の強制力、自己と曲の同一化の魅力である。

ちなみに・・・chara、椎名林檎、阿部真央、SHISHAMOなども抽象と具体の使い方が独特なアーティストだと個人的には思っている。ただ、charaは抽象度が度を越していて(タイムマシーンなど)、椎名林檎は舞台設定がリアリティが少なくファンタジーみがある(警告、モルヒネなど)、阿部真央は感情表現が中心で舞台設定が曖昧(じゃあ、何故など)、逆にSHISHAMOは舞台設定や主人公のペルソナなどがはっきりしていて具体性が強い(君と夏フェスや君とゲレンデなど)。

もちろん、上記はそれぞれのアーティストの良さを言っている。ただ、比較してみると、aikoがいかに日常の延長で抽象と具体をバランスよく表現しているかが分かる。その絶妙なバランスこそが、聴き手を世界観に没入させる、一体化させる魅力なのではないかと思う。