そして、ぼくらはすれ違い合い続ける
―――いつからだろう、こんな孤独は?
こんなはずじゃなかった…。
こんなことのために、この力は身につけたのではない。
…なぜだ?
間違いなく、進んではいる。
ただ、進めば進むほど、最初に欲しかったものからは遠ざかっていく。
「理解」や「共感」が遠のいていく。
そんなつもりではなかった。
弱いままで居続けたかった。
今日も、誰かが幸せそうに笑う中で、誰かが苦しみ悲しい思いをしている。
だから、ぼくらはすれ違い合い続けるしかないんだ…。
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今回の記事はWEBマガジン「Vi-Cross」での活動の一環として、バーチャルでもしばしばテーマとして取り上げられる「多様性」について、一歩踏み込む内容にしたいと思う。
Vi-Crossメンバーであるまゆにゃあさんの記事で紹介された「VRアバターの人身売買騒動」とその背景における「(ネット上で曲解されている)フェミニズム」、以前からTwitter上で交流があるよーへん(@361Yohen)
さんの配信で取り上げられていたテーマを見て、思うところがあったからだ。
個人的かつ誤解を招くことをあらかじめ言っておくと、私は「多様性=自分の個性をわかってもらうこと」に関しては、9割以上諦めている。
逆に言えば1割ぐらいは諦めてはいない。
「多様性」とは、すなわち「自分とは違う存在を理解すること」にあると思う。
また「他人とは違う自分を認めてもらうこと」でもあるはず。
ただ、(ネット社会含む)現実では、これが死ぬほど難しい。
自分とは異なる価値観の者を「敵」とする人間が、あまりにも多いからだ。
それもそのはずで、自分が今まで大事にしていた価値観、あるいは生活・日常というものを、無断で侵略してくる可能性があれば、人は自ずと防衛する。
新たなる価値観に自分が変化を余儀なく迫られるリスクを思えば、危機因子である異質なモノは排除した方が手っ取り早いからだ。
自分と違う存在を否定すれば、自分の居場所は守れる。
だから、敵は排除すべきなのだ。
このあたりの考察・分析は、Vi-Crossに参加してくださってるウルリム・ムワクさんが過去にいくつも執筆されているので、参考にされたし。
また、前々回の記事でまゆにゃあさんが取り扱ったフェミニズムに関する事の発端も、元を正せば「異質なものを(少なからず自分の中では)排除したい」という、防衛反応だったようにも思う。
※誤解がないように言っておくが、いわゆる「ツイフェミ」は本来的なフェミニズムを都合よく言葉の武器として振るっているだけなので「フェミニズム」そのものが悪だと言ってるわけではない点に留意。
こういった、ネット上で繰り広げられる過激な「多様性の否定」も踏まえた上で、現実であれ、ネット上であれ、バーチャルであれ、多様性を認め合うことの難しさについて紹介していきたいと思う。
多様化し続けるネット世界と新たなバーチャル世界
ネット上の価値観の多様性は、もはや一個人が受け入れるには、膨大すぎる情報量に達している。
昔であれば、2chで完全匿名で相手の背景や現実のステータスが見えない中、純粋に「文字情報のみ」でコミュニケーションができた。
また、2chの板・スレッド機能は「住み分け」として機能しており、自然と自分の居心地の良いコミュニティを選ぶことができた。
この状況が変化しだしたのは、スマホ登場後のSNS全盛期だったと思う。
(それ以前にもmixiなどのSNSはあったが、実名でも匿名性が高く、コミュニティ運営も比較的平穏に済んでたとは思う)
Facebook登場による実名・顔出しによるインターネットのリア充的コミュニケーションの浸透、ゾーニングのないTwitterでの無法なまでの情報拡散…。
いずれにしても、本来、出会うべきでなかった情報と出会ってしまうことで人はいともたやすく壊れてしまえるのである。
また、そこにビジネス上の都合や思惑も交わるため、SNSは純粋なコミュニケーションの場としては機能しなくなってしまっている。
そのような状況が加速する中で生まれたのが「やさしいセカイ」としての「VRSNS」「VTuber文化」という側面はあると思う。
「やさしいセカイ」と言えば聞こえはいいが、あられもないことを言ってしまうと「単なる現実逃避の場」だとも言える。
もっとも、それもあくまで「VRコミュニティの一つの側面」ではあるが、サブカルチャー・オタク文化が、ある意味で「現実逃避のためのツール」として用いられてきた背景は、無視してはいけない一つの事実としてとらえなければならない。
(「VRは現実逃避ではない!現実を変えるために取り組んでいる人もいる!」という反論もあるとは思うし、そのような人物もたくさんいるが、とりあえず今回は置いておく)
現実に居場所のない少数派の居場所がここだった…
誰もが現実が上手く行くわけではない。
学校や職場、あるいは家庭等、現実のコミュニティで自分の居場所が作れなかったり、現実に避けたい嫌なことばかりがあると、逃げる場所が必要だ。
その逃げ場所が、かつてはインターネットだったように思う。
私自身、匿名掲示板2chを見つけ出し、博識な人間が数多く議論や情報交換を繰り広げていたり、しょうもないゴシップで大騒ぎする様を楽しんでいたものだ。
少数派はいつの時代も迫害される。
誰にも、どの集団にも受け入れてもらえない。
だが、インターネットの匿名文化であれば、どれだけ歪な人間であっても、入社前の面接があるわけでも事前の根回しがいるわけでもなく、書き込むだけで受け入れてもらえる。
現実に居場所のない人間にとって、それだけインターネットのコミュニティは自分にとって大事な場所なのだろうとは思う。
それが今、SNS、書き込み可能な動画チャンネル、配信プラットフォーム、オンラインサロンなど、様々な形で姿を変え、誰もが「オンライン上における、自分の居場所」を見つけてさまよっているのだろう。
やがて世界は浸食され、いつまでも楽園は続かない
ただ、いつまでも楽しい時間は続かない。
人は成長していく過程で、今までと考え方も変わり、大事なものも変わっていく。
また、コミュニティ運営においては、組織の拡大や異分子の混入に伴い、必ず粛清や崩壊の危機に晒され、誰かが冷酷な決断をしなければ、必ず壊れていく。
それを「侵略」と呼んで他者のせいにするか、あるいは「変化」と呼んで成長と受け入れるかは、人それぞれである。
少なからず、インターネット文化やテクノロジーの発展で、我々は膨大な恩恵を受けている。
逆に、その過程で大事なものを奪われたり、犠牲にした人も少なくはないとも思う。
いずれにしても、人の流れや成長、技術の発展は一個人の小さな力や叫びでは止められない。
無慈悲なまでに大きな力が、我々の生活も価値感も侵略していくのである。
同じ経験や境遇がなければ、本当の意味での共感や理解は難しい
「多様性」の話に戻ろう。
多様性とは「大事なもの」「守りたい」の違いから生まれる。
たとえば「ルールを守ることを大事にする人間」からすれば、ルールを守らない人間は理解できない存在であり、ともすれば敵として排除しなければならない存在となる。
あるいは「特定のセンシティブな話題に配慮することが友好の証」であれば、配慮のない発言一つしただけで敵として警戒され、ともすれば排除の対象となる。
「大事なもの」「守りたいもの」は、時に「共感」「似たような境遇」といった感情的なものとなることもある。
たとえば「自分はダメな人間だ…」という愚痴を共通の「共感項目」としてコミュニティを築き上げることもできるし、あるいは「あいつは敵だ!」という攻撃的な主張を「共感項目」とすることもできる。
このような「共感項目」を持つコミュニティに「いや、君たちはできる人間だ!」「いや、あいつは味方かもしれない」と主張してみても、数の暴力で排他されるのが常だ。
だが「多様性を認め受け入れる」のであれば、そのような存在がいることも需要があることも、認めなければならない。
また、そのようなコミュニティに属する人間に「君たちの気持ちはわかるけど、それを良く思わない人も多くいるし、少なからず私は認めがたい。また、現実では受け入れてもらい難いだろう」と意見して、相手がこちらの言い分を聞くまでもなく敵意を向けてきても「それも多様性だね!」と言って無条件で受け入れなければならない。
要は「理屈では共感できるけど、経験としては共感できない」という状態であれば、どうあがいてもすれ違い続けるしかないのである。
差し伸べられた手も、現実と向き合ってそこから抜け出せるかもしれないチャンスも、当人たちにとっては「余計なお節介」でしかない。
解決は望めない。
いや、解決してはいけない。
解決してしまえば、今までの自分を否定することになるし、何よりも居心地の良い場所を自ら手放すことになる。
少なからず、そういう価値観も「多様性」として、認めなければならないのだろう。
すれ違い続けても歩みを止めてはいけない
冒頭にも述べた通り、私は9割以上は「多様性=自分の個性をわかってもらうこと」は諦めている。
そもそも、ちょっとした会話や言葉でわかってもらえるほど、単純明快な人間ではないし、歳を重ねるにつれ、抱えているものもしがらみも増え、それを他人にすべて理解してもらおうという方が無理な話だ。
だからと言って、それが他人を理解しない理由や、多様性を否定する理由にはならない。
ただ、それでも「お前は何もわかってない!」と頭ごなしに否定してくる相手と対話を重ねたいかと言えば、多くの人はそうは思わないだろう。
多様性を守るために異分子を排除することは防衛のためには必要ではある。
だが、過剰な防衛は「本来、対話すれば分かり合えた存在」をも突き放すことになる。
また、本当の意味での「共感」は、似たような境遇や体験をした人同士でしか分かち合えない。
それでも、人は想像することで、自分が体験したことないことでも分かるはずだし、他人と共感・共有できるはずだ。
そのために、我々は創作し、物語を創り上げ、表現してきたのではないか?
「どうせ、自分のことなんてわかってもらえない…」「あいつはこうだから自分のことをわかるはずはない!」という決めつけは、何かを創造していく上では自由な発想を妨げる、極めて危険な思想である。
だから、私は残りの1割は諦めてはいない。
たとえ、自分の書いた文章が9割以上の人に曲解され、ともすればワケのわからない主張や攻撃に用いられたとしても、残りの1割に共感を与え、勇気をもたらし、現実に立ち向かうための一歩にしてもらえるのであれば、誰に何と言われようが、たとえ先が見えない闇の中だろうと、いくらでも言葉を紡ぎ上げる。
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