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【雑感】noteを書き始めておもったこと


1:感想文を読ませるのは恥ずかしい


私はどこにでもいる普通の人間である。

しいていえば文章を書くのが好きで、映画はもっと好きだ。「じゃあ映画の感想文を書けばいいんじゃね?」とアホな思考回路が仕上がったのは2015年のこと。

手帳に簡単な感想を書くことはあったが、初めて人に読まれることを前提に書いたのは『ビッグ・アイズ』の感想メールだった。2015年1月末、タマフル時代の「ムービーウォッチメン」に投稿した。

ハガキではなくメールでやりとりするこの現代社会。

先日、送信フォルダを深堀りしていたら当時のメールを読み返すことができてしまった。自分が書いた内容があまりに酷すぎてその恥ずかしさに泣きそうになった。

そもそも大人が感想文を書いて誰かに読ませるって実はとても恥ずかしいことのような気がしてきた。小学生じゃあるまいし。それなりの年齢の奴が「とにかく面白かったです!!」みたいなことしか書いていない文章をプロに送り付けるなんて勇気があるだけのバカだ。

しかし当時の自分はメールを送った達成感だけでご満悦だった。

ここで少し脱線するが、2024年8月現在、果たしてどれだけの人間が『ビッグ・アイズ』の存在を記憶しているだろうか・・・。

安心してほしい。初メールの思い出深き映画だが、私はこの映画について「なにひとつおぼえていない」。ぼんやりとした記憶だが、ぼんやりとした映画だったと思う。

感想メールを書いては送信する習慣を数年続けてきたが、傾向として「ぼんやりした映画」について書くのは非常に難しい。「思い立ったが吉日」とはいうが、初体験に『ビッグ・アイズ』を選んでしまった当時の私は少し運が悪かったと思う。


2:増えていく自信、消えていく羞恥心

「ムービーウォッチメン」の課題映画を見て、その感想をメールで番組に送るというルーティーンをそれなりに継続していたが、地元では物理的に不可能な状況があった。ミニシアター系はそもそも九州に上陸しないことがしばしばあるのだ。

しかし2016年に大阪に引っ越してから「梅田か京都に行けばなんとかなる」ことに気が付いてしまった。おかげさまですべての課題映画(約50作品/年)を見て、そのすべてに感想メールを送るというルーティーンが実現可能になってしまった。

以来すべてにメールを書いたわけではないが、見ては書く、見ては書く、を続けてきたことで「コツ」みたいなものが見え始めたのが2020年ごろ。初めて「リスナーからの感想メール」として採用され、それから計10本弱くらい採用されたと思う。

案外やるなあと自分に思い始めた。宇多丸さんに「面白い」「その視点はなかった」とか言われると悦に入った。認めてもらえたという自信のおかげで「不採用になったら番組スタッフが粛々とシュレッダーにかけるだけだから何でもいいからメールを送ろう」とシンプルに思えるようになってきた。恥ずかしさや照れはなくなってきた。


3:しかし命を削ってまで書くことでもない

上司の目を盗み、仕事中に感想メールをこっそり作成するなど充実したワークライフバランスで過ごしていたのだが、2022年に人生初の異動を経験した。引越などの環境変化はなかったが、仕事内容がガラリと変わったことに疲れ果て、メール投稿をやめた。

上には上がいるとは思うが、繁忙期は22時に退勤してコンビニ弁当を買って23時に帰宅するという日々が当たり前になっていた。「死なないためにちゃんと寝よう。メールなんか書く時間はない」と社会人としてマトモな思考回路にすり替わっていた。

そのときの自己嫌悪はあまり思い出したくない。怠けている自分が嫌だった。ただの趣味なんだから怠けていいと頭ではわかっているが、それでも怠けていると感じる自分がダルかった。あと、ラジオネームを何度か変えているくせに番組から忘れられるのではないかと怖かった。名物リスナーみたいな扱いを受けていたわけでもないのにこればかりは不思議である。

しかし2024年に30歳となり、メンタルヘルスのことも学び、仕事にも慣れてきたのでちょっとnoteでもやってみようかしら、と思ったのが2か月前のことだ。


4:で、結局いま何を思っているのか

さて前置きが長くなったが、noteに投稿をはじめて2か月が経ち、「なりたくないなと思っていたはずの人間に近づいている」という実感がある。

というか、悲しいけれど自分は天才でもなんでもなく「普通の人間なんだ」と気がつきはじめた。

その理由は自分のなかに眠っていた貪欲な「承認欲求」を自覚したからだ。

SNS依存のデメリットとして「承認欲求」がぶっ壊れることを指摘する人は多い。詳しいことは忘れたが、脳の仕組みとして「いいね!」とか「閲覧数」が可視化されると依存しやすくなるらしい。人間の脳の仕組みの問題だから「承認欲求に憑りつかれておかしなことになる」のは人間としてよくあることなのだ。

だがM-1グランプリ2022でウエストランドがYoutuberに向けて言い放った「再生数に憑りつかれておかしくなっている!」で大爆笑した。「承認欲求」がバグっておかしなことになっている人を見かけると「こうなったら終わりだな・・・」と私は思っていた。


承認欲求の仕組みを知識として知っているからこそ「私はnoteをやり始めてもそんなことは気にしない人間でいられる」「マイペースでやれる」「【スキ】に踊らされる人間にはならない」と信じていた。

しかし!ワシは今めっちゃ「承認欲求」に憑りつかれとる!


そもそもアトロクで不採用になったメールをnoteにアップしているのだって「番組に認められなかったけどネット上の誰かなら認めてくれるかも」なんて気持ちがあったことは否めない。

あとシンプルに「スキ」とか「閲覧数」を気にしてる。普通に気にしてる。


自分の文章の手ごたえと「スキ」の数が一致していないことにモヤモヤしたり、でも明日になったらもう少しは増えるかもなとドキドキしたりしている。もっといろいろな人に読まれるためにはXとかインスタとかやったほうがいいのか?とか検討してしまっている。こんな自分は自分じゃない気がしてきた。


5:でもさ、認められたいって普通だよね

だが冷静になってみた。
誰かに認められたいって、そんなに悪いことかしら。

『ビッグ・アイズ』とは違う意味で「ぼんやりした映画」なので感想を書きづらいのだが、最近見た『時々、私は考える』は素晴らしい作品だった。

この映画は「承認欲求」ではなく「孤独」がテーマだが、「人付き合いが苦手だから一人になりたい」「でも気が向いたからパーティーに出かける」といった主人公の日常を追いかけることで、白黒はっきりはしない曖昧な感情を丁寧に掬い取っている。

「誰かとつながりたい」という気持ちに嘘はない。でもそんな深くつながりたいわけじゃない。人間本来の欲求は確かにある。けれど欲求の深さは人それぞれだよね、とこの映画は静かに語っている。たぶんそんな気がする。


承認欲求に憑りつかれつつある私はヤバいんじゃないかと思い始めていた。けれど自分が表現したものをシェアして、善かれ悪しかれ反応が返ってくるのはぶっちゃけ「気持ちいい」。

その気持ちに変にフタをすることもないと今は考えている。なぜならこれはダークサイドに落ちるような悪い感情ではなくて、人間ならば普通の感情だから。

逆に聞きたい。アトロクリスナーで映画の感想を番組で取り上げられ、宇多丸さんから「おもしろい視点ですね!」なんて言われて悦に入らないほうがおかしくないか?憧れの人に認められて、ちょっとだけ天狗になるって、それって普通じゃん。

私はどこにでもいる普通の人間である。

普通の人間で何が悪い。聖人ではないからゲスなこともたまには考えるぞ。スキの数もめちゃくちゃ気にしてやるぞ。私はそんな私が誇らしい。


たった2か月noteをかじった奴が何を言ってるんだろう、この人は何が言いたいんだろうと思った読者もいると思う。その通りだと思う。しかし、それでも最後までお付き合いいただき、まことにありがとうございます。


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