「さよなら絵梨」は読者を封じ込めるのがうますぎる
1.鋭すぎたツイート
私はこれから、「さよなら絵梨」(以降、「本作」で統一)が読者を「封じ込め」ていることを告発したいと思います。といっても、この告発をしたのは私が最初というわけではありません。むしろ、本作の公開直後、わずか36分後に、以下のツイートがこの問題を告発しています。
このツイートが言っている『序盤のクソ映画批評』は以下のコマのことを指していると思われます。
絵梨によるこの批評は、直接的には、本作内部において主人公が初めて作った映画に対する評価です。しかし、九兆さんが指摘するように「さよなら絵梨」自体の評価にもなっている、というメタ的構造を有しています。
この構造に、おそらく一読しただけで気づく九兆さんの「読者」としての力量には目を見張るものがあります。しかし、私が驚嘆したのは、この構造に対する九兆さんの感想です。
九兆さんは、単に、この構造が素晴らしい!と称賛しているわけではありません。むしろ、「ムカつくんですけど!!!!!」と大いに不満を表出しています。その理由は「作品としての完結度が高すぎる」からです。
ここで、九兆さんが「完成度が高すぎる」と言っているのではない、ことに注意してください。もちろん、九兆さんも本作の完成度の高さは認めるでしょう。しかし、九兆さんの不満は「完結度が高すぎる」という点に向けられています。
「完結度が高すぎ」て何が悪いのでしょうか?
2.作者の死と読者の誕生
美学における繊細な議論をいったん脇に置けば、「作者の死」——それに伴う「読者の誕生」——は一般常識と化しつつあります。平たくいえば、作品の意味、あるいは解釈を支配するのは作者ではなく、読者です。
作品をそれ自体として眺めたとき、そこには無限の可能性が潜んでいます。その可能性を、作者という一人の人間のために限定するのは、あまりにもったいない。多数で多様で、一人として同じ者がいない読者こそが、その可能性を花開かせることによって、作品はその価値を無限に高められるはずです。作者の死は作者の軽視を含意しません。むしろ、最高の作品を産み出すことを望む作者の、その意図を尊重し、それに適う最もリスペクトに満ちた取り扱い、それこそ「作者の死」です。
本作の問題は、本作に対する読者による解釈の無限の可能性を、絵梨による評価という一定の言語化によって封じ込めている点にある。私はそう考えます。九兆さんの文句も、「あまりに完結度が高すぎるがゆえに解釈の余地が開かれていない」ことに向けられている。私はそう理解しています。そして、この記事でも、同じ文句を述べたいと思っています。
3.言語化の罠
自分の感想を言語化する手間を省くために、あるいはより良く言語化するために、気になった作品に関する感想やレビューを検索することは、何らかのジャンルの作品に親しむ人なら誰でも経験していると思います。これは無限の可能性を探究する所作とは言い難いですが、感想やレビューはあくまで「読者」が用意したもの。そう思えば、この所作においても、読者はまだ作者から自由です。
しかし、九兆さんのツイートを見て、あるいは自身で絵梨の評価が本作自体にも当てはまり得ることに気づいた読者は、どうでしょうか。絵梨の言葉を本作に対する自分の評価として受け入れてしまうのではないでしょうか。
実際、本作は、そうなるように読者を仕向けているのです。まず、絵梨は、明らかに主人公の理解者として登場します。
その上で、主人公よりもおそらくは映画に詳しい、評者としての権威を持つキャラクターとして描写されているのです。
つまり、私たちは、絵梨のいう評価が正当であると思うように、本作によって誘導されています。その絵梨のいうことなのだから、本作に対する評価としても正しいはずだ。無意識のうちに、そう思い込まされているのです。
しかも、絵梨の評価は、公平に見えます。「文句はたくさんあった」、「確かに幼い作品だとは思う」という批判を加えているからです。これによって、この評価を本作に対する評価だと見ても、——それは作者による本作の評価であるにもかかわらず——嫌味がないわけです。
そうだとすれば、我々が絵梨の評価に引きずられても無理はないでしょう。しかしここで、よく考えてみてください。あなたは本当に、本作に対する「文句はたくさんあった」でしょうか? そういう人もいるかもしれません。しかし、本作を「幼い作品」だと見做す読者はいるでしょうか? むしろ本作は、細部まで計算しつくされた重層的構造が大きな魅力の一つです。
これに対して、本作が「中々見ない尖り方をしてて驚きの方が多かった」のは多くの読者が共感するところでしょう。何より、「どこまでが事実か創作かわからない所も私には良い混乱だった」という絵梨の表現は、本作の魅力を、実に的確に言語化しています。
つまり、我々が引きずられがちな絵梨の評価は、肯定的なものは本作にも正面から当てはまり、否定的なものはそうではないように仕組まれています。これは、当然ながら、本作の評価を高めるのに大きく寄与することでしょう。こうして、本作は非常に巧妙に、「読者」を封じ込めているのです。
4.ルックバック
しかし、ここで「待った」がかかるかもしれません。このようなメタ的構造が同様に見られる箇所は、上記のような「封じ込め」と真反対のことを言っているように見えるからです。
主人公の父が語るこの創作論は、本作の作者である藤本タツキ先生の創作論でもあるようにも解釈できます。
藤本タツキ先生のファンならここで前作「ルックバック」の修正騒動を思い出すでしょう。まさに修正の対象となったあの表現で、一部の受け手は傷つき、そしてまた、作り手たる藤本タツキ先生も傷ついたことは容易に推測できます。だからこそ、このセリフが、藤本タツキ先生の本心だと思われるのです。
だとすれば、藤本タツキ先生にとって、「作り手」たる作者と「受け手」たる読者は対等なのではないでしょうか? そうだとすれば、読者を「封じ込め」の対象として見ているというのは、単なる邪推に過ぎないのでは?
実際に、本作のエンディングは、解釈の余地を多分に残すものです。十数年後の未来は、年老いた主人公——あるいはそれを演じる父親——のモノローグによってのみ語られます。
つまり、あえてモノローグによる表現に限定することによって、映画の続きとも、本当に時間が経過したとも、どちらとも解釈できるように仕組まれているわけです。ここでは、むしろ読者による解釈が作者によって奨励されています。
そう、奨励されているのです。言い方を変えましょう。我々読者は、本作のラストシーンを解釈するように作者から誘導されています。我々が解釈を行うべき対象ですら、作者によって選定されているのです。
このように、本作は、幾重にも読者を操作しようと試みています。だとすれば、父親の上記セリフも、作者の創作論のナイーブな告白と受け取るべきではありません。それは、一定の効果を狙って、あえて表現されたものとみるべきです。その効果とは、一体なんでしょうか? それはこの記事を数段落遡れば、直ちに明らかになるはずです。
作者による操作を疑わせないために配置された装飾。私はそのように、主人公の父の創作論を解釈します。
5.作者が復活したら読者はどこに行くのか
藤本タツキという作者は巧妙に読者を封じ込めている。それが本記事の主張であり、結論です。その「封じ込め」はあまりに巧みすぎて、封じ込められていることに気づいていない読者が大半ではないでしょうか。
これを作者の復活だとすれば、読者はどこへ行くのでしょうか。死ぬわけではありません。藤本タツキは読者を殺すのではなく餌を与えて、反抗することすら思いつかないように馴致してくれるからです。これは安寧で幸福な未来。私はそれを否定するつもりはありません。
それなのに、何故でしょう。私がどうしようもなく心惹かれるのは、公開わずか36分後に放たれた心の叫びなのです。
私はタツキにこういいたい。
「読者はここにいる。」
それこそが彼が求めているものでもあるような、そんな気がするのです。
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