時間と言語 150/365
わたしたちの日常と切っても切り離せない時間。
いつも、時間に追われ、時間と共に生活を繰り返している。
もう、当たり前過ぎて、深く考えることも無くなった時間について。
時間とはそもそも何なのか、その本質とは…?
時間という概念は言語から生まれているということは間違いない。
言葉を覚える前の赤ん坊には、時間という概念は無い。
そこから、言語のある世界の中で、昨日とか明日という世界を一緒に経験していく。
一緒に経験していく中で、今ではない過ぎ去った記憶の世界を過去、まだ来ていない空想の世界を未来というように、概念化していく。
だから、いつも時間は言語に絡みついて発生している。
そして、言語は常に外からもたらされる。
他者からもたらされる。
他者との関係性の中から、生まれてくる。
そういう風にして実際の経験と言語を組み合わせることにより、言語の世界が生まれる。
ここで更に、言語について考えてみると、言語自体は音の順番や組み合わせで構成されている。
それが後々、文字に変わっていく訳だが、起源は音の順番。
あ→め
で、雨や飴を想像する。
これが
か→め
だったら、亀を想像する。
つまり、この時に無意識に記憶が発動している。
あを聞いた後にめを聞いた。
かを聞いた後にめを聞いた。
それにより、全く違う意味になる。
この記憶を保持する力がなければ、言語という構造は成り立たない。
順番を記憶して反芻出来るから言語として成り立つ。
それは視覚の認識もそう。
日時計は太陽が移動した動きを基準に時間を算出する。
これも元々、動く前の像と後の像を記憶しているから、そこを基準に動いたと言える。
この2つから言えることは、そもそも、わたしたち人間が記憶を保持出来る能力から、時間を生み出したと言える。
時間は外にはない。
時間のある世界にわたしたちが生まれた訳ではない。
時間を感じ、時間を受け取っていると同時に記憶を保持出来るという機能から、時間を生み出している。
そういうメタな時間も実は無意識に持っている。
時間という世界を作り、その時間の中で勝手に制限を作り、ストーリーを受け取っているのが、人間社会そのもの。
しかし、それを作り出しているのも、わたしたち自身。
この無意識の構造に気がつけたのなら、もしかして、わたしたち人間は時間の謎が解けるかも知れない。
そんなことを考えるきっかけにもなったヌーソロジー。
ヌーソロジーでは、もっと深く、ここのところが考察されている。
ヌーソロジーを学ぶと、もしかして本当に時間と別れられるかも、時間の制限から自由になれるかも、って思う。
それは全く新しい世界。
永遠を生きる存在の形が垣間見える世界。
まだまだ世界は広く、奥深く、深淵だ。