失われたもう一つの世界
何か物足りない・・・
何かやらなければいけないけど、その何かがわからない・・・
漠然と・・・これではない・・・
今は中々の混迷の時代。
そんな思いを抱えている人も多いのではないでしょうか?
特にここnoteに集い、書くことに向き合っている人は元々そういう想いがあって、そこに向かっている人もいると思います。
僕自身はずっとここに向き合ってきました。
何をしたいのか?
そういったテーマの記事もいくつか、書いてきました。
そして、その根源にあった想いが少しずつ言語化出来るようになってきました。
僕の根源には
失われたもう一つの世界があるのでは?
それが本質の方なのでは?
というテーマがありました。
本当は持っていたんだけど、いつの間にか失ってしまった。
その失われたものが何だったのか?
それが何なのか?
それが知りたかったんだと思います。
だから、やりたいことをやろうとするんだけど、既存の世界には無いのです。
既存の世界で認められているものを追っかけてみるけど、結局それでは失われたものを見つけることは出来ません。
それは既にあるものを確認するだけ。
では、失われたものは何だったのか・・・?
その事が徐々に分かってきたのは、ヌーソロジーという思想に出会ったからだと思います。
ヌーソロジーは半田広宣さんが提唱する新しい宇宙哲学。
ヌーソロジーの醍醐味はゲシュタルトをメタ認知していくことです。
そして、人間型ゲシュタルトというものを認識していくのですが、そういった過程でその上位次元のゲシュタルトも構築していきます。
つまり、人間を超えていく訳です。
ここに向かっていくゲシュタルトを変換人型ゲシュタルトと呼んでいて、大きな意識転換を起こしていきます。
この話しには人間はそもそも何かを失っているという前提がありますが、こういったことは現実社会ではほとんど話に上がりません。
それどころか、人間自体がどんどん進化していて、世界を良い方向へ導けるというような希望的な考えもあります。
それが全く間違っているとは思いませんが、今のわたしたちの姿から本当にその希望が見えているのでしょうか?
実はこの人間型ゲシュタルトの延長ではもう希望は見れないのでは?
僕はある時からそう思い始めました。
古くからそういうことに気づいた人がある意味、超越論的な見地から世界の姿を解いてきた歴史もあります。
中には特別な能力を持った人もいます。
しかし、ヌーソロジーはそういったところとは真っ向から向き合わず、あくまで誰でもが思考を積み重ねれば、理解できるという思考体系なのです。(超難しいけど)
あくまで、現実の見えている空間で考えていくということが全く新しいと思います。
見えない世界の話を感覚で掴むわけではないのです。
そういった理論的なことを学んでやっと見えてきた、失われたもう一つの世界。
元々は見えない世界のこと、本当のことを分かりたいと思っていたんだけど、実は見えている世界を見ていないだけだったと気付かされました。
失われたのはゲシュタルトがそうであるから。
人間というゲシュタルトが失わせていたのです。
目の前の世界は全く、失われていなかった。
だから、外の世界に答えを求めても、見えない世界を見ようと努力しても、外にはその答えはないのです。
外の世界を対象として見る限り、失われたまま。
要は内側なのです。
その感覚を取り戻さないと失われた世界のことは分かりません。
そういったことに気が付いてからは、見るという行為、そして見えているのは何だ?
そんな根本的なところから考え始めました。
すると、目の前の空間に勝手に世界を作っていたのは自分の方で、そっちの方が実際には存在していない側だった。
それは見られた意識で作った世界。
実はそれが見えてはいない世界。
見えているのは見ている意識、見ている世界。
実はそれが自分そのものなんだと。
このゲシュタルトが失われているから、全てに於いて物足りない訳です。世界と意識が分離している感覚は本来の形では無いと深層意識は気づいています。
きっと、やりたいことをやるという根本にはこういう深層意識からのエネルギーが働いているんだけど、実はそれはゴールではなく、始まりなのです。
それぞれが、自分のやり方で失われたもうひとつの世界を見つけにいく時代。
それがこれからの時代の大きな潮流です。
それを僕は統合の時代と読んでいます。
全く新しい感覚を掴みにいく世界観が必要です。
やりたいことが見つからないという人の中には、もうここしか、求めるものがないと気がついている人もいるのかも知れません。
やりたいことが無いからと言って、落胆せずに新しい世界観を作る側になるのです。
その足がかりとして、ヌーソロジーはおすすめです!
そして、民泊すさのわはそういったことに気づいた方々が集まる場所のようです。