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源平の時代うそホント【4】〜歴史ナナメ解説〜

12)「屋島の戦い」のうそホント

しかし、時代は勝手に回り始めていました。
1184年9月、頼朝の命を受け平氏討伐に向かった範頼軍が、遠征先で手こずり兵糧がつき始め、援軍を必要としていました。そうなると、京にいる義経に再出馬願うしかありません。

1185年1月、頼朝からゴーサインをもらった義経は、頼朝の信頼を勝ち取ろうと必死に戦いに向かいます。義経は、「自分が大きな武功を挙げることこそ、頼朝さまの信頼を勝ち得るんだ」と信じ込んでいました。
敵は讃岐「屋島」にいて瀬戸内の制海権を持っています。屋島沖には何千隻もの平氏の水軍がいます。

ここで義経は大阪側にいて、奇襲作戦を考案。
これまでの通説では、嵐の晩に地元の漁師に船を出させ、一挙に阿波へ上陸し、背後から攻めれば敵は総崩れになるだろうと義経は主張。
それではリスクが高すぎると大反対する副将の梶原景時を制して、嵐の中少人数で命懸けで阿波へ。普通なら3日かかるところを6時間で上陸します。
となっていますが、これも最近の研究では史実とは言い難いようです。

義経の秀でたところは、戦いの前に用意周到にまわりの者たちに協力を要請するところかもしれません。源氏は水軍を持たなかったので、義経は阿波や摂津などの水軍に根回しして、1ヶ月かけて協力体制を作りました。
その上で、普通の日に少人数で阿波まで普通に上陸。
そして、梶原景時の本隊は海側から、自分は陸側から攻めていきました。

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そして義経は屋島まで来たら近所の家々を焼き討ち、大軍が襲来したかのように見せかけました。またも背後から現れた敵に平氏は、意表をつかれ、激しい矢戦の末、劣勢を強いられ屋島を離れるしかありませんでした。長門国にあるもう一つの拠点「彦島」へ退却せざるを得なかったのです。

ちなみに決戦の日、風雨が激しく、梶原景時率いる水軍の到着が遅れたとのこと。
景時が前線に着いたときは、ほとんどの平氏は海から逃げていくところだったとか。この時の風雨が、義経伝説のヒントになったのかもしれませんね。


13)「壇ノ浦の戦い」のうそホント

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で、壇ノ浦にて最後の決戦。(1185年4月)
もちろん「義経の八双飛び」はありません。
言い忘れましたが「武蔵坊弁慶」も残念ながらフィクション。
いれば面白いのですが、義経は僧兵たちの協力も得ていたと言われているので、その総称として「弁慶」という架空の人物を作ったのではないか、というのが一般的です。
それより驚いたのは、通説では、開戦は午前中で、初め平氏有利だったのが、
午後になり潮の流れが変わり、源氏有利となり源氏勝利に終わった……
というのは嘘だということ。

そもそも開戦は午後からだったようです。
つまり潮の流れは勝敗には関係ないようです。
確かに言われてみれば、風の流れなら矢の勢いに影響しますが、潮の流れではあまり勝敗に関係ないですね。海に熟知した地元の平氏水軍が、潮の流れで不利になるような布陣は敷くはずもありませんし。
源氏の勝利を決定づけたのは、どうやら平氏方についていた阿波水軍・田口成良300隻が源氏に寝返ったからのようです。成良の息子が阿波で源氏の捕虜になっていたことが、成良の心変わりだった要因かもしれません。


14)鎌倉幕府はなぜ1185年?

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というわけで、1185年4月平氏滅亡まで見てきました。
そこで年号の改正の話になりますが、
鎌倉時代開始の年が、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年ではなく、
なぜこの平氏滅亡の1185年に訂正されたのか?

この年、平氏滅亡で何が起こったかというと、
全国にわたる広大な平氏の領地の、持ち主が滅亡したということ。
それらは頼朝の支配下に入ったことを意味します。
(敗者で持ち主がいなくなった土地を「没官領」と言います)

頼朝は、かねてから諸国の自分の領地に、鎌倉の御家人を「惣追捕使(そうついぶし)」に任命し、配置していました。
惣追捕使とは地方の警察機関のようなもの。
この惣追捕使が、のちに「守護」と呼ばれます。
ということはつまり
全国の広大な没官領に、頼朝の御家人たちが「守護」として警備にあたるようになった、ということ。
きっかけはこうです。1185年に後白河はやむを得ず「義経追悼」の院宣を出します。それを受けた頼朝が、「では義経らを探すため全国に「守護」を配備しますからね」と、後白河から正式に「守護」の存在を認めさせたわけです。
結局このシステムが、継続的に続くことになり政治の仕組みが大きく変わりました。

これは画期的なことですよね。
それまでは、全国の国司や受領を「朝廷」が任命して、統治にあたらせていました。ですから朝廷を怒らせると、国司を剥奪され、反逆者として処分されていたのです。
それを今度は、全国(一部)の守護を「鎌倉幕府」が任命して、統治に当たらせるのです。つまり朝廷から睨まれても、鎌倉幕府とうまくやっていれば、なんとか守護の立場は保たれたことになります。
明らかに朝廷中心の政治から、武士である頼朝が頂点とする幕府中心の政治に、とって変わったことになったわけです。
歴史専門家は、ここを鎌倉時代の出発点にしたほうが実質的にふさわしいのではないか、として1185年に切り替えたようです。

15)もっと残念な義経さま

最後に、義経と頼朝はご存知の通り、最悪の道筋をたどります。
義経は壇ノ浦で勝利しましたが、肝心の三種の神器のうち天叢雲剣を奪えず、安徳天皇を救うことができなかった。それが義経の性急な戦い方に原因があったと、頼朝は判断しました。

実際のところどうだったかわからないのですが、
頼朝は、もともと自分に許可なく朝廷から官位を授かった者は、鎌倉から事実上の追放としていました。義経もその例外でなかった。
それどころか義経は、京都にとどまり、武功を独り占めしようとし(景時の手紙による)、後白河から最大級の賞賛を受け、そして案の定、院の役職に就いています。それとあまり知られていませんが、平氏にあらずんば〜の平時忠の娘を娶っており、平氏残党と連携しようとしたのではないかと誤解を与える行動もとっています。

このあたりが、頼朝のほかの御家人への武功を奪い、武士同士の信頼関係を傷つける危険分子になっていったと、十分想像できます。
本人は純粋なので、そんなつもり全くなかったのでしょうがね。
残念すぎるぞ、源義経さま!

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いかがでしたか? 5年後はこんな内容の教科書になっているかもしれません。
こうしてみると、一見何もしてないように見える頼朝(失礼)、実は先を読む天才だったんですね。
そして、源平合戦を盛り上げた(というかムチャクチャにした)影の主人公は、
後白河法皇なのかもしれません。

ということで私、今こういう流れでマンガ描いていますけど、カッコいい伝説シーンなどを描かないわけだから、面白くないマンガになっちゃうんじゃないか?と危惧してます。おっと、これは余計でしたね(笑)。
お読みいただき、ありがとうございました!

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END

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