
脱センまでの大まかな流れ
ここでは教員生活スタートから脱セン(脱教員)に至るまでの流れを簡単に説明する。(さらに詳しくは別記事で)
2011年4月 教員として新規採用
東日本大震災のあった年。前年度に採用試験に合格し内定していたものの、震災後に教員スタートができるかかなり動揺した。
学校現場も災害への危機管理対策でピリピリしていた。
子どもたちとどう接するか、何を教えるのか。
命の大切さや互いを助け合うこと、自然の怖さや尊さ。ただのスタートにならなかった。
この年の採用には使命と意味があったと思う。
2014年 2校目異動
3年間勤めた初任校を離れ、2校目の学校へ初異動。
新しい環境にショックを受けた(良くも悪くも)。
カルチャーショックに似た、不安で居所のない苦しみを味わったが、温かな職場の雰囲気もあり、次第にそこの環境と校風に慣れて仕事が楽しくなっていった。
2017年 自己啓発休業を取得し、海外大学院へ留学
2校目の3年目ともなると、自分のキャリアについて色々と考え始めた。
指導教科は英語。採用の頃から、無我夢中に教えながらも、思うような授業や成果が出せず、もっともっと深い次元でスキルを磨きたいと思っていた。
そこで、一度教わる立場に戻って、根本的なところから学び直そうと考えた。
日本の大学院?いや、ここは思い切って、海外だ。
探したら、公務員の大学院での修学のための自己啓発休業という制度があった。
上司に相談し、関係各所へお願いを回し、1年がかりで休業許可を得た。
1年間の大学院留学。
思いっきり、オーストラリアで英語教授法を学んだ。
2018年 帰国と新しい出会い
帰国すると、同じ勤務地だったが今までの担当とは全く違うキャリアが待っていた。
特別支援学級を初めて担当した(ちなみに担当部活動も変わった)。
出発前とはまるで違うカリキュラムと仕事内容に最初は戸惑った。
だが、海外生活で「多様性」を目の当たりにしたことや、学生として過ごした様々な経験が役に立ち、どんどん特別支援教育へのめり込んだ。
気がつけば、教員としての新しいキャリアに夢中になって2年が経とうとしていた。
2020年 コロナ禍になって…
病の流行は止められない。
あれよあれよという間に、一斉休校。
卒業を控えた生徒たちの不安。
学級の生徒たちの不安。
大人としても、どう行動するのが正しいのかわからない中、不安を抱える生徒の前に立つのが辛かった。
ただ、生徒の目をしっかりと見つめながら言っておいたことは…
「こうした厳しい時にこそ、周囲の大人たちの行動をよく見ておくこと。大人だってこんな事態になってどう行動したらわからない。それでも、大人たちが何を考え、どんな言葉を発するのか。よく見てほしい。いつか君たちが大人になって同じような状況にあったときに、きっとこの経験が役に立つはずだから。私たち先生たち、大人たちは君たちのことを守ろうと思っていることは本当だから。」
学校が、生徒の毎日通い学ぶ場ではなくなった時、自分にできることは何かを考えた。
同僚や上司に企画を提案し、相談した。
チームや職場全体で協力して動いたこともあった。
現場は必死だった。
と同時に分かったことがある。
学校は大きな縦社会の裾にある機関だという事。
守られていると同時に、理想を自由に実現しきれない、強いしがらみを感じた。
これからは、自分の責任でいい。自分の思う教育の理想を実現したい。
そう思い、現場を離れる決意をした。
2011年に震災と始まり、2021年にコロナ禍で終えた私の教員生活だった。