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アニメ、戦国妖狐から考える【強さ】のヒントになりそうなこと。

サブスクでアニメや映画が見れる時代に、なにか面白いことはできないだろうか?と考えて、最近目をつぶってマウスカーソルがある作品をみることにしている。半ばタロット占いのように自分の〈無意識〉に身をゆだねて選択すると、大体知りたかったことやヒントになりそうなことが落ちている。

今回は〈戦国妖狐〉というアニメをみることになった。

時は永禄七年(1564年)、人の営みの傍らに闇(かたわら)と呼ばれる魑魅魍魎・妖怪変化たちが息づく戦国時代。

齢200年を生きる人間好きの妖狐・たまと、縁あって義姉弟となった、人間嫌いの仙道(仙術使い)の少年・迅火は「世直し姉弟」を名乗り、人に仇なす闇・障怪(さわり)退治の旅をしていた。

戦国妖狐wiki

要約すると人間と獣の異能バトルみたいな話だ。
ただ強さを論じるアニメはあれど、〈戦国妖狐〉は命や魂を取り扱ったり
僧侶のような存在である僧兵集団・断怪衆(だんがいしゅう)で仏門について少し触れていたりしてなかなか面白い。

そのなかでも三つ面白かった点を挙げてみる。

①能力は何によって発揮されているか?

ひとつは主人公のひとりである妖狐・たまの母親である、くずのはの台詞。
くずのはが敵役ながら母親という立場からたまに助言するというシーン。
『女はいかなる男も受け入れるもの、私の男が勝つか、あなたの男が勝つか。どっちかしら?』と半ば諫めるというものだ。

たまとペアになっている男性、山戸 迅火(やまと じんか)は、人間でありながら妖怪の能力を持っている。しかし、たまの〈正義感〉によってその能力は半分ほどに抑えられている。
一方でくずのはとペアになっている男性、野禅(やぜん)は、その能力を惜しげもなく発揮している。

つまり、この男性ふたりの戦力の差は〈女性性〉の化身である妖狐がその能力をどれくらい受け入れているのかというものが左右しているという描写だ。下世話な言葉で言えばどっちがあげまんかということを指している。

これはスピリチュアル界隈でも話に出てくることが多い。男性性は実行する力、女性性は許容する力だ。アニメなので男女にくっきり分かれて描かれているが、自分の中に全て内包している。
男性性の強い女性は自分が許容できずに実行ばかりをして消耗している。
女性性の強い男性は許容するれど実行しないので愚痴や文句ばかりだろう。
どちらもバランスがくずれていると現実創造ができないと言われている。

つまり、自分の能力を出すには女性性の許容する力が不可欠なのだろう。

②自分をつよくするものは何か?

断怪衆の野禅(ラスボス)と戦うにあたって、山の神の元で修行させられるシーンがある。山の神は主観の時間を操れる。精神と時の部屋みたいなところで修行が行われるが、そこの課題はすべて〈状況を受け入れれるか?〉というテーマにそってつくられている。

迅火には自分のことを好きという女性と戦うという状況、くずのはは水辺の上を歩いて渡るという状況、唯一の人間である真介は岩を切って前へ進むという課題が出される。
実はこの中で一番初めに脱出するのは人間である真介だ。これは人間という生き物がいかに環境に適応して生きているのかを表していると思う。

自分を強くするもの、それは能力でもなく、ただ漠然と自分の置かれた場所を自覚して受け入れるということだろうということが。描かれている。

③強さは何を生み出すのか?

最後に強さは何を生み出すのか?という部分の説明が目立たないが面白かった。ひとつは異能を自分の存在の所在としている烈深(れっしん)と真介とのバトルシーン。烈深は自分の強さに溺れて、どんなものでも破壊できると思っている。しかし、信介のもつ魔剣・荒吹は戦っている最中に〈ここは狭すぎるから外に出たい〉と戦っている場所から空高く飛んでいく。
高く飛んだ魔剣は〈見ろ!自由だ!空だ!!!〉と叫ぶ。
この戦いは自由に自分の能力を受け入れている魔剣に軍配があがる。

同じ頃、断怪衆の野禅と山戸 迅火の最終決戦が行われていたが
山の神にあっさり中断させられる。
断怪衆の残党の一人の僧侶がその様子をみて〈やはり、大きな力はより大きな力によって抑え込まれてしまう。強さは何も生まない。〉とつぶやく。

〈悟り〉は〈差を取る〉とも言われているが、このシーンで強さで差をつけようとしていることに対して言及があるのはただの異能バトルアニメには珍しい事だと感じた。

というわけで、今の内容をぎゅーーーーーっとしたネタを
佐久間さんがやってるのでおいておきます。


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surume | 思考する夜型人間
最後までお読みいただきありがとうございます、今日もいいことありますよ!