〇〇とはを具体的に言語化してみよう!
男とは
私にとって『男』とはなんなのだろう。心強い味方。肯定してくれる存在。だからそれ以外の人を『男』として認識していないのだろうと思う。否定してくる人はそもそも『異性』という枠から外れて『クズ』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、味方してこない人に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。男に対しては時間を割かない。
女とは
私にとって『女』とはなんなのだろう。心強い味方。肯定してくれる存在。だからそれ以外の人を『女』として認識していないのだろうと思う。否定してくる人はそもそも『同性』という枠から外れて『クズ』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、味方してこない人に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。女に対しては時間を割かない。
大人とは
私にとって『大人』とはなんなのだろう。心強い味方。肯定してくれる存在。だからそれ以外の人を『大人』として認識していないのだろうと思う。否定してくる人はそもそも『年齢』という枠から外れて『クズ』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、味方してこない人に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。年齢に対しては時間を割かない。
子供とは
私にとって『子供』とはなんなのだろう。心強い味方。肯定してくれる存在。だからそれ以外の人を『子供』として認識していないのだろうと思う。否定してくる人はそもそも『年齢』という枠から外れて『クズ』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、味方してこない人に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。年齢に対しては時間を割かない。
俺とは
私にとって『俺(私自身)』とはなんなのだろう。心強い味方。肯定してくれる存在。だからそれ以外の人を『俺(私自身)』として認識していないのだろうと思う。否定してくる私はそもそも『生命』という枠から外れて『クズ』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、味方してこない私に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
俺意外とは
私にとって『俺意外(他人)』とはなんなのだろう。閃きを与えてくれる存在。だからそれ以外の人を『俺意外(他人)』として認識していないのだろうと思う。否定してくる私はそもそも『生命』という枠から外れて『クズ』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、閃きのない俺意外(他人)に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
昨日とは
私にとって『昨日』とはなんなのだろう。慈悲を与えてくれる存在。だからそれ以外の日を『人生』として認識していないのだろうと思う。否定してくる昨日はそもそも『時間』という枠から外れて『忘却』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、慈悲のない昨日に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
明日とは
私にとって『明日』とはなんなのだろう。慈悲を与えてくれる存在。だからそれ以外の日を『人生』として認識していないのだろうと思う。否定してくる昨日はそもそも『時間』という枠から外れて『忘却』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、慈悲のない明日に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
西とは
私にとって『西』とはなんなのだろう。知恵を与えてくれる存在。だからそれ以外の西を『知恵』として認識していないのだろうと思う。知恵のない西はそもそも『🌎』という枠から外れて『忘却』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、知恵のない西に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
東とは
私にとって『東』とはなんなのだろう。知識を与えてくれる存在。だからそれ以外の西を『知識』として認識していないのだろうと思う。知識のない東はそもそも『🌎』という枠から外れて『忘却』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、知識のない東に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
しあわせとは
私にとって『しあわせ』とはなんなのだろう。彩りを与えてくれる存在。だからそれ以外の色彩を『しあわせ』として認識していないのだろうと思う。色彩のないしあわせはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、彩りのない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
ふしあわせとは
私にとって『ふしあわせ』とはなんなのだろう。濃淡を与えてくれる存在。だからそれ以外の濃淡を『ふしあわせ』として認識していないのだろうと思う。濃淡のないふしあわせはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、濃淡のない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
おもろいとは
私にとって『おもろい』とはなんなのだろう。彩りを与えてくれる存在。だからそれ以外の色彩を『おもろい』として認識していないのだろうと思う。色彩のないしあわせはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、彩りのない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
おもろくないとは
私にとって『おもろくない』とはなんなのだろう。濃淡を与えてくれる存在。だからそれ以外の濃淡を『おもろくない』として認識していないのだろうと思う。濃淡のないふしあわせはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、濃淡のない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
うまいとは
私にとって『うまい』とはなんなのだろう。彩りを与えてくれる存在。だからそれ以外の色彩を『うまい』として認識していないのだろうと思う。色彩のないうまいはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、彩りのない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
へたとは
私にとって『へた』とはなんなのだろう。濃淡を与えてくれる存在。だからそれ以外の濃淡を『へた』として認識していないのだろうと思う。濃淡のないへたはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、濃淡のない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
つよいとは
私にとって『つよい』とはなんなのだろう。濃淡を与えてくれる存在。だからそれ以外の濃淡を『つよい』として認識していないのだろうと思う。濃淡のないつよいはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、濃淡のない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
よわいとは
私にとって『よわい』とはなんなのだろう。彩りを与えてくれる存在。だからそれ以外の色彩を『よわい』として認識していないのだろうと思う。色彩のないよわいはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、彩りのない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
すきとは
私にとって『すき』とはなんなのだろう。濃淡を与えてくれる存在。だからそれ以外の濃淡を『すき』として認識していないのだろうと思う。濃淡のないすきはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、濃淡のない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
きらいとは
私にとって『きらい』とはなんなのだろう。彩りを与えてくれる存在。だからそれ以外の色彩を『きらい』として認識していないのだろうと思う。色彩のないきらいはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、彩りのない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
かっこいいとは
私にとって『かっこいい』とはなんなのだろう。濃淡を与えてくれる存在。だからそれ以外の濃淡を『かっこいい』として認識していないのだろうと思う。濃淡のないかっこいいはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、濃淡のない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
うつくしいとは
私にとって『うつくしい』とはなんなのだろう。彩りを与えてくれる存在。だからそれ以外の色彩を『うつくしい』として認識していないのだろうと思う。色彩のないうつくしいはそもそも『感情』という枠から外れて『無感覚』という格下のフォルダーに分類されている。現実を見ていないと言えばそうなのかもしれないけれど、彩りのない感情に時間を費やすほど人生は長くないという根底の概念が私をそうさせているのかもしれない。
📝まとめ📝
人間関係・・・味方か閃きの二択であとは格下フォルダー
時間・・・慈悲。それ以外の日は人生じゃない格下フォルダー
場所・・・知識か知恵の二択であとは格下フォルダー
感情関係・・・彩りか濃淡の二択であとは格下フォルダー
わたしの脳みそってなんてすっきり脳筋フォルダーになっているのかしら。
ちょっとグラデーションがあってもいいのかもしれませんね。できるのか。