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考えすぎと言われたのでnoteを書き殴ってる話。

私は哲学的な話が好きだ。生き抜いてきた人間の残す言葉は深くて面白い。難解な言葉も気持ちも、人間しか持つことができない。
「人間は考えるあしだ」とフランスの思想家は言う。

ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってしまう。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。

なぜ、葦というのか?

つまり、精神性や思考は弱さも生むけれども私たちはそれによって強風が吹き荒んでも立ち上がれる。成功者は必ず「思考を止めること」をすすめてくるけれども、彼らや彼女らは思考し続けていることを悟られたくないだけだ。

考えすぎは悪か?

考えすぎという言葉は、逆に自分が考えてもわからないことを言わないでと言ってきているようなものだろう。もしくは心配しているのかもしれない。私は素直にこの「考えすぎ」という言葉に嫌悪感を抱く。考えをすぎた人たちの発明や解明によって私たちは生きているからだ。

考えすぎな人は孤独に見えるが、宇宙の英智という場所まで辿りつけば「孤独」という概念自体が嘘であることに気がつく。そんなものはありはしないのだ。生きとし生けるものは生きている以上、そして、死んでからも誰かや何かと関係しないと存在できない。

逆に存在している限りは、どんなに人が周りにいなさそうでも孤独になれないとも言える。自ら考えを止めず突き進む先には新しいコミュニティが広がっている事が多いからだ。

「荒野へ」の主人公は、荒野ではなく新しい街へ行くべきだったのだ。私は「考えすぎ」と言われた事への復讐も兼ねて文字を追いかける。

何かを言われて傷つくのは図星ではなくて「それとは違う」からだ。私は考えぎなのではなく、思考が深いだけ。洞察力があるだけ。そこにたどり着けば何の問題もない。強風に煽られて倒れた葦はいずれ立ち上がるのだから。

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surume | 思考する夜型人間
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