牧之原ポタリングvol.2「田沼意次と勝間田 ゆかりの地を巡る」 2019 Aug.9 SURUGA Cycle Journal Vol.43
「牧ポタ」。
のんびりマイペースに牧之原市のきれいなところを自転車で巡り、6か月間SNSとWebでご紹介していきます。第2回目の今回も、牧之原市在住の「走るイラストレーター」岩本陽子さんにナビゲーターをお願いしました。今回は歴史探訪ですので、牧之原市史料館学芸員の長谷川さん、文化財調査官の松下さんにご同行いただきました。
それでは、岩本陽子さんのレポートです。
牧之原市相良ゆかりの人物といえば田沼意次。折しも今年は田沼意次侯生誕300年の記念すべき年。これを機に地元の歴史にもっと詳しくなりたい、そして先の時代勝間田地区を広く治めていた勝間田氏とはどんな一族だったのだろうという想いを抱き、牧之原市史料館学芸員の長谷川氏、文化財調査官の松下氏とともにポタリングに出かけた。今回も相棒は、デイトナポタリングバイクDE-01だ。
梅雨半ばの7月某日。牧之原市史料館に向かうと長谷川氏が出迎えてくれた。氏は、田沼意次侯生誕300年記念事業として開催された「ぶらり田沼の旅」の立役者。同ツアーでは自ら田沼意次侯に扮し、田沼意次侯ゆかりの地をユニークな解説で案内した。今回も、見所をいろいろと紹介してもらう。
ここには田沼家の領地だった牧之原市の歴史をはじめ、調度品や地元に古くから伝わる御神輿などが展示されている。その中で一枚の掛軸にハッとさせられた。日本に一枚しか存在しない壮年期の田沼意次侯の肖像画だ。狩衣姿でしっかりと前を見据えている姿。大胆な衣服の描写とは打って変わり、マスクの繊細な筆使いから相当な美男子だったことが伺える。
牧之原市役所相良庁舎のすぐ近くに風情のある石垣が残っている。長谷川氏によるとここは「仙台河岸」と言い、かつて相良城が存在していた時代に船を付けて、物資を搬送できる機能を持つ造りになっていた名残だそうだ。仙台河岸の「仙台」とは、現在の宮城県・仙台藩主の伊達重村侯が寄進した石材を使って築かれたため、その名前の由来になっている。
牧之原市役所相良庁舎隣の相良小学校正門には、「二の丸のマツ」という立派な松が10本植えられている。…ということは城壁の上にこの松が植えてあったってこと?長谷川氏に訪ねると、ここは名前の通りかつては二の丸だった場所。この松は相良城が取り壊された後、二の丸を取り囲んでいた土塁の上に植栽されたものらしい。「仙台河岸」とともに現在も残る数少ない相良城の痕跡だ。完成からわずか8年だけ存在していた城跡に植えられた命は今、登下校する児童を見守っている。
「二の丸のマツ」から市街地に出て散策する。ここにも相良城の名残はあるだろうか。
本通り近くの水路を長谷川氏が指差した。「ここは相良城の堀跡と考えられています。」よく見ると家々の間を縫うように通う細い水路の壁は、年季の入った石垣が積まれていて何とも言えない雰囲気を醸し出している。
城下町跡を探しながらそぞろ歩き。すると小路の角に「田沼茶羊羹」と書かれたのぼりを発見。その先は和洋菓子屋「扇子屋」さんだった。それって田沼意次侯ゆかりの羊羹?さっそく入ってみよう。
のれんをくぐるとショーケースの中に金粉を施した萌葱色のお菓子があった。一見和菓子かと思いきや、外側のバウムクーヘン生地がまるで茶畑のようだ。その中央の羊羹と黄色い餡が差し色になっている。これが「田沼茶羊羹」か…。奥からのれん越しに挨拶してくれた店主に羊羹の由来を聞いてみる。なんと地元の(県立)相良高校の生徒が授業の一環で一緒に商品開発したものだそう。
和菓子を手に取り暫く眺めると、ある一句が頭をかすめた。
「白河の 清きに魚も住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
田沼から時代は変わり、松平定信が政権をとった頃に流行った歌だ。これは「松平の政治は厳しすぎて潤いがない。もとの田沼時代の方が利権がらみはあっても庶民は明るく豊かであったから懐かしい」という事を訴えた歌。この金箔の輝きが白河に映る月明かりに見え、少し感慨深い思いに駆られた。
相良市街から北へ少し走った田園風景の広がる中に「吸江山 平田寺」はあった。
ここは牧之原市のお寺の中でも特に田沼家とゆかりが深いとされている。
かつて火災により失われた本堂を天明6年(1786年)に田沼意次侯の支援によって再建し、田沼家専用の玄関を備えた風格ある梵刹。その後も縁は続き、田沼意次侯とその息子の意知、意正、さらに孫、ひ孫の御位牌も奉納され、田沼家の御霊を祀る香華寺となった。ご住職の計らいで特別に本堂から奥へ進むと、田沼家のご位牌が祀られてあった。自転車を機会にこの場所でご位牌に手を合わせる事ができる巡り合わせに深く感謝した。
「平田寺」のご住職にお礼を言い山門を後にする。ここから少し奥まった場所にある「大江配水池」で休憩しようか。牧之原大地へ続く勾配の途中に巨大な貯水タンクが顔を出す。その敷地内の休憩所はベンチ、水道が完備されサイクリストにもってこいの休憩所だ。ここの設立を記念し、3mほどのタイル画制作の依頼を受けた。市民から寄せられたテーマをもとに牧之原台地の季節の移り変わりやサイクリストたち、海運業の繁栄を祈願する御船神事などを描いた。もちろん牧之原茶のゆるキャラであるチャーフィンだって健在だ。
今度は沿岸方面へペダルを漕いだ。すぐ側には海開きから間もない「さがらサンビーチ」が望める。そこの街角に何ともユニークな松があった。それが「根上りマツ」だ。静岡県の天然記念物に指定され、高さ10mほどの大きな松の根が地上から4mほどむき出し状態だ。「これって先の宝永の大地震で起きた現象ですかね」と訪ねると長谷川氏は首を横に振った。
長谷川氏によると、田沼意次侯時代の前から相良の海岸沿いには強風や高潮から町を守る土手と松林があったらしい。それを元に田沼意次侯は家臣に「根上りマツ」のあるこの地形を生かした町作りを行うよう命じ、さらに土手や松林で沿岸部を強化した。やがて時代は過ぎ、昭和に入ると土地開発のために土手は削られたが、その名残として「根上りマツ」は存在しているらしい。田沼意次侯の町作りに対する思いが今でもここには残っている。
「根上りマツ」から市街地方面へ足を運ぶ。山門の躍動感溢れる竜の彫刻は寛永3年(1791年)のもの。ここは「浄心寺」といい田沼家の祈願寺。
長谷川氏の話によると田沼意次侯の父、意行とその奥方がここに祀られている七面大明神に子宝祈願をした。その後田沼家が家紋を七曜紋としたのはこの事からだそうだ。
山門で目にした竜や、瓶から水が溢れ出す彫刻には「雨乞い」の思いが込められているそうだ。
「浄心寺」から幾分離れていない場所に「大澤寺」がある。ここは相良城が取り壊された後に建立されたらしい。どうやら床の基礎に相良城の廃材が使用されているそうだ。床下を覗くと幾つかの木目に四角い「ほぞ穴」が見える。そして何と言っても屋根の傾斜の美しさに息をのむ。
まるで富士山のようだ。明治初期、辺りの家屋は大体平屋にも関わらずこのお寺の高さはほぼ4階建ての高さでとても町並みから目立っただろう。言わば「相良のスカイツリー」と称しても過言ではない。本堂に入り正面から出迎える金箔の襖絵の絢爛さは筆舌に尽くしがたい。「牡丹と孔雀」を描いた作者は円山応挙の孫弟子だということだ。
「大澤寺」から西に少し離れた場所に移動し、「般若寺」に到着する。山門をくぐると境内では色とりどりの季節の花が出迎えてくれた。
本堂には田沼意次侯ゆかりの宝物「陣太鼓」がある。張皮がズバッと切り破られ痛々しい。
長谷川氏によると陣太鼓の中に金塊が詰まっていると噂が流れ、大正初期にそれを信じた盗賊が中身を確かめるための仕業と伝えられているそうだ。結局金塊は出てこなかったが太鼓の内側に記された銘文でこの太鼓が明和4年(1767年)に「福島屋金左衛門」の手によって製作されたと判明し、陣太鼓の評判はより確かなものになったそうだ。
気がつけばもうお昼になっていた。市街にある創業明治18年のお蕎麦屋「壽亭」さんで田沼家ご当主からもお墨付きをもらった人気No.1の「田沼蕎麦」をオーダー。
中身が気になる「田沼蕎麦」。
輪島塗の器に田沼家の家紋が黄金に輝いている。
七曜紋を拝した器に盛り蕎麦と海老や野菜の天ぷらが添えてある。お猪口の蕎麦汁と絡めていただくと蕎麦の香りが鼻先を霞めて箸が進む。パリッとした天ぷらも歯切れが良く、蒸し暑いこの時期にぴったりの一品だった。
「いただきます!」
「壽亭」さんでお腹を満たした後、長谷川氏にお礼を言い、松下氏と合流した。この後は相良を離れ、いざ勝間田地区へ散策開始!
静波海岸方面より勝間田川沿いに北上し、「勝間田城跡」麓の休憩所に到着。ここは戦国時代以前の原型を残した貴重な山城として名を馳せている。そして、一行を待ち受けていたのは度肝を抜くような急勾配だった…。「ええー!あれ登るの〜!?」弾んだ息を整え小高い山の上から振り返るとそこには遥かを見渡せる景色があった。
頂上の茶畑道脇を頼りに進んでいく。木々の生えた三の曲輪へと進んでいくとそこには巨大な檻があった。水辺を求めて出没するイノシシへの仕掛けなのだそうだ。確かに山城だけあって動物の隠れ家にももってこいの場所だ。
そこから歩いて二・三の曲輪土塁までやって来た。今までいた三の曲輪よりもここは高低差が2mほどあることに気がつく。松下氏曰く曲輪全体を平たく固めた際に排出された土を盛って土塁を造り挟むことで外敵からの侵入を防ぐ役目を果たしているそうだ。なるほど、説明されて勝間田氏がこの地形を利用し砦を築いたのがよく分かる。
少し歩いた後の東尾根曲輪からは、ほぼ同じ高さに位置する「富士山静岡空港」を望むことができる。「晴れた日はここから富士山もよく見えるんですよ」。と松下氏はニコニコ顔。本当に山城歩きが好きな表情だ。
体に勾配を感じながら本曲輪に到着した。山城と言えどここは落ち着いた雰囲気。辺り一遍曲輪と堀切で囲み防御してある。
今川氏の勢力に圧倒された勝間田一族はその後、静岡県東部などに分散していったそうだ。そういえば先の自転車イベント「富士いち」の拠点だった会場「富士山樹空の森」辺りも勝間田姓が多かったような…。自転車で繋がった一族との不思議なご縁を感じ、思わず勝間田神社に手を合わせた。
「勝間田城跡」を離れ、今度は勝間田川河口付近の「清浄寺」へとハンドルを向けた。小高い山の斜面に勝間田氏の墓が駿河湾を眺めるように幾つか並列して建っていた。供養塔の丸石はよく眺めると石の色が桃色っぽいものや青みがかったものなど様々だ。これらは焼津など別の土地から持ちこまれたものらしい。それほど勝間田氏が勢力を成していたことが伺える。
「清浄寺」を後にして、「スルガ銀行榛原支店」で牧之原市役所水嶋氏と記念撮影。「ここやで〜!!」と言わんばかりのポーズ。
そしてスタッフさんと記念撮影。
はじめはシャイな皆さんもシャッターを押すたびに打ち解けて、最後は笑顔でのワンショット。
牧之原市を代表するゆかりの人物、田沼意次侯と勝間田氏。時代は前後するもののこの土地に多大な影響を与え、文化を育んでくれた両氏のことを今まで地元民として知っていたつもりでいた私は、今回自転車で巡り完全に目からウロコだった。これを機にぜひとも愛車と共に地元を周遊してみてはいかがだろうか。自転車の程よいスピード感で見渡せば、きっと今までと違う新たな発見に出会うこと間違いなしだ。