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2020年の日本沈没

もう慣れてしまった風景だけれど、街ゆく人がほぼ全員マスクをしている。もしこの先、何十年先も外出時にはマスクをする状態だったらどうしよう……と考える。電車で乗り合わせた人たちをみて、なんとなくその人となりを想像することが好きなのだが、いまはみんながマスクをしていて、ぜんぜん想像力がわいてこない。風景がとても退屈だ。

さて、今週、ネットフリックスの連続アニメ『日本沈没2020』を観終えた。監督は、前作『DEVILMAN crybaby』が話題をよんだ湯浅政明。

原作は言わずと知れた小松左京によるもので、1973年作。この年、石油ショックもあった。猛烈な経済成長期にあって、みんなどこかで「このままいくはずがない」と思っていたのだろう、小松の原作は上下巻あわせて460万部に達するベストセラーになった。

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現代の『日本沈没2020』はというと、率直なところ、十分な制作時間がとれなかったのかなと感じてしまうものだった。それは、エピソードとエピソードがうまく流れていないところであったり、あの『マインド・ゲーム』をつくった湯浅政明ならではの、「ぐにゃんぐにゃん」と観る者をトリップさせる躍動感あるアニメ表現がなかった。

それはまた次回作に期待したいが、それでも『日本沈没2020』もいまの気分を反映していたようにおもう。それはちょっとねじれたものだけど。特に最終話でそう感じた。その話をするため、以下、ネタバレがあることを許してほしい。


作品の大筋は、主人公家族が海に沈みゆく日本から脱出すべく、船を求めて各地を転々とするというものである。道中、家族を助けるのは、コンビニやスーパー、新興宗教、漁師のじいさんなどだ。助けてくれるのは、為政者ではないのだ。

原作は、科学者、政治家、政界のフィクサーが登場し、為政者側の視点で話は展開する。それに対し、『日本沈没2020』は常に一般の人視点で災害が描かれる。だから、敢えてということだろうか、最終回まで為政者の存在感はない(脱出用の船を管理している描写はある)。これは、このリメイク独自の視点だと捉えていたが、エピローグで生き残った主人公につぎのように語らせる。「わたしが今ここに立てているのは/その中で居合わせた賢明なる人々の恩恵からなる礎があるからだ/それは家族であるし集団、大きくいえば国家ということかもしれない」。

わたしは、ここを観て拍子抜けした。「居合わせた賢明なる人々」はわかる。漁師のじいさんなどだろうそこからいきなり「国家ということかもしれない」となる。「大きくいえば」そりゃそうかもしれないが、その間にはいろいろ段階があるのでぶっ飛ばしている。というか、為政者の存在はかなり薄かったじゃないか。

が、「でも」と、思いなおす。為政者の姿が見えないなら、半径数メートルの「居合わせた」人を延長して、ボヤッと「国」を想像するしかないではないか。それに妙に納得するのは、昨今のパンデミックにおいて為政者の存在感をつよく感じることのできないこと(たとえば首相が記者会見や国会をひらいてなかったり)、そのなかでクラウドファンデングやボランティアなどで友達と支援しあっていること、そんな「いま」とダブるからだ。

そんな現状から、「何もしてくれないこの国はダメだ……」というアナーキーな気分と、「国がなんとかしてくれ!」とすがる気分がないまぜである。多くの人も、どちらかいっぽうの気分が強いにせよ、このふたつを同時に抱いているんじゃないだろうか。そこからすると『日本沈没2020』は、そのなんともいえないアンビバレントないまの気分をよく反映しているとおもう(政治的に左/右の考え方の人どちらからも批判的な意見があるようだが、のもそのあたりに起因しているんじゃないか)。それは、きっと監督が意図したことじゃないだろうけど。

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